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|家族名=
|氏族名= [[アンティスティウス氏族]]
|官職= [[クァエストル|財務官]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前61年]])</span><br>[[護民官]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前56年]])</span><br>前法務官?<span style="font-size: smaller">([[紀元前45年]]-[[紀元前
|属州総督=[[シリア属州]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前45年]]-[[紀元前41年|41年]])</span><br>[[ガリア・ナルボネンシス]]属州<span style="font-size: smaller">([[紀元前35年]]-[[紀元前33年|33年]])</span><br>[[ヒスパニア・キテリオル]]属州<span style="font-size: smaller">([[紀元前26年]]-[[紀元前25年|25年]])</span>
|指揮戦争=
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== 経歴 ==
ウェトゥスに関する最初の記録は[[紀元前61年]]のものである。ウェトゥスの父の下で財務官を務めたカエサルが、[[プラエトル]](法務官)としてヒスパニア・ウルテリオル総督となったとき、カエサルは感謝の印としてウェトゥスを財務官に任命している<ref name = R2 />。[[紀元前56年]]、ウェトゥスは[[護民官]]に就任した<ref>キケロ『弟クィントウス宛書簡集』、II, 1, 3.</ref><ref>Broughton, 1952, p. 209.</ref><ref name = R6>Antistius 47, 1893.</ref>。
[[紀元前45年]]、すでに[[グナエウス・ポンペイウス|ポンペイウス]]は死去していたが、カエサルと元老院派の[[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|内戦]]はまだ続いていた。この年、カエサルは、おそらくプロプラエトル(法務官代理)権限で<ref name = R7>Broughton, 1952, p. 308.</ref>、ウェトゥスを[[シリア属州]]総督に任命している。ウェトゥスはクィントゥス・カエキリウス・バッススと戦わなければならなかった。ウェトゥスは[[アパメア]]でバッススを包囲したが、[[パルティア]]が援軍を送ってきたために退却を余儀なくされた<ref>キケロ『アッティクス宛書簡集』、XIV, 9, 3.</ref><ref>カッシウス・ディオ『ローマ史』、XLVII, 27.</ref>。しかしながら、彼の兵士たちはウェトゥスを「[[インペラトール]]」(勝利将軍)と称えた<ref name = R7 /><ref>キケロ『ブルトゥス宛書簡集』、I, 11, 2.</ref>。
[[紀元前44年]]、ローマに戻る途中でウェトゥスは[[バルカン半島]]でカエサルを暗殺した[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス]]に会った。そこでウェトゥスは持ち運んでいた属州からの収入をブルトゥスに渡し、近い将来にローマで[[プラエトル]](法務官)選挙が実施されないようなら、ブルトゥス質に加わると約束した<ref>キケロ『ブルトゥス宛書簡集』、I, 11, 1.</ref><ref>Broughton, 1952, p. 327.</ref>。翌[[紀元前43年]]、ウェトゥスはこの約束を守り、ブルトゥスの軍の[[レガトゥス]](副司令官)となった<ref>Broughton, 1952, p. 352.</ref>。しかし、暗殺者側は[[フィリッピの戦い]]で[[三頭政治|第二回三頭政治]]側に敗北する。その後ウェトゥスは三頭政治側に加わった<ref>Syme, 1939, p. 206.</ref>。
[[アッピアノス]]によれば、紀元前30年代にウェトゥスという将軍がローマ軍を指揮してアルプスの部族であるサラッシ族と戦っていた。この指揮官は不意に彼らを襲い、策略を駆使して峠を占領し、2年間にわたって彼らを包囲した。サラッシ族は塩が不足して降伏せざるを得なくなり、ローマの守備隊を受けた<ref>アッピアノス『ローマ史:イリュリア戦争』、17.</ref>。おそらくこのウェトゥスは[[紀元前35年]]から[[紀元前33年]]まで[[ガリア・ナルボネンシス]]属州総督を務めた、本記事のウェトゥスであろう<ref>Broughton, 1952 , p. 407; 411.</ref>。
[[紀元前30年]]、ウェトゥスは離職した正規執政官[[マルクス・リキニウス・クラッスス (紀元前30年の執政官)|マルクス・リキニウス・クラッスス]]の後を受けて補充執政官に就任した<ref name = R6 />。ウェトゥスも任期を満了せず、[[マルクス・トゥッリウス・キケロ・ミノル]]に引き継いだ。
[[紀元前26年]]、ウェトゥスは[[ヒスパニア・キテリオル]]属州の総督に任命された。アウグストゥスの治世に軍隊を有して属州の支配権を与えられた、数少ない執政官階級の一人となったのである。その1年後、ウェトゥスはプブリウス・カリシウスと共に、ヒスパニア北部のアストゥレス族との戦争を完全な勝利で終わらせた<ref name = R6 /><ref>Syme, 1939 , p. 332.</ref>。
[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]の死去(紀元前43年12月7日)後、[[ポッツオーリ|プテオリ]]近くの彼の別荘は、アンティスティウス・ウェトゥスという人物の手に渡っている<ref>プリニウス『博物誌』、XXXI, 6.</ref>。これも本記事のウェトゥスのことと思われる<ref name = R6 />。
== ==
ウェトゥスには同名の息子があり、西暦[[6年]]に執政官を務めた<ref>Antistius 48, 1893.</ref>。
== 脚注 ==
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== 参考資料 ==
=== 古代の資料 ===
*[[
*[[
*
*
*[[プルタルコス]]『[[対比列伝]]』
*[[マルクス・トゥッリウス・キケロ]]『ブルトゥス宛書簡集』
*マルクス・トゥッリウス・キケロ『弟クィントウス宛書簡集』
*マルクス・トゥッリウス・キケロ『アッティクス宛書簡集』
=== 研究書 ===
* Broughton
* Klebs E. Antistius 46 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft. - Stuttg. : JB Metzler, 1893. - Bd. I, 1. - Kol. 2558.
* Klebs E. Antistius 48 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft. - Stuttg. : JB Metzler, 1893. - Bd. I, 1. - Kol. 2558-2559.
* Syme R. The Roman Revolution. - Oxford: Clarendon Press, 1939. - P. 568.
==関連項目==
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[[Category:紀元前1世紀の古代ローマ人]]
▲[[Category:ポンペイウス氏族|くなえうす 2]]
[[Category:執政官]]
*[[ルキウス・アンナエウス・セネカ]]『ルキリウス宛書簡集』
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