「環濠集落」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
34行目:
 
[[愛知県]]の[[朝日遺跡]]は、弥生時代'''中期'''の集落であり、環濠集落のなかでも最も防御施設の発達した集落として知られている。集落の外側に大濠をめぐらせて、その土で内側に土塁を築いたと考えられている。さらに外側には逆茂木を伴う2重の柵と乱杭をめぐらしている。
弥生時代'''前期末'''以降に発達する環濠集落は、[[濃尾平野]]以西の各地域に水稲農耕が定着した段階であり、その定着によって引き起こされた土地や水争いなどの村落間の[[戦い]]に備えて独自に成立したと見られる。

そのころ、[[福岡市]]の[[板付遺跡]]と[[大阪府]][[高槻市]]の[[安満遺跡|安満(あま)遺跡]]、[[京都府]]中郡[[峰山町京丹後市]][[扇谷遺跡]]などに環濠集落が現れる。
板付では復元幅2メートル以上、深さ1メール以上の断面V字形の溝を、長径120メートル、短径100メートルの長円形に堀めぐらしている。濠外にも住居や穴倉がある。扇谷遺跡では、最大幅6メートル、深さ4メートルの環濠か、長径270メートル、短径250メートルでムラを囲っている。これらの遺跡からムラを[[防御]]していることが考えられる。

また、[[北部九州]]や[[近畿地方]]などの西日本では、水稲農耕の定着した時期の弥生時代前期末段階で、ムラづくりが共通していたとも考えられる。次の弥生'''中期'''以降、近畿では環濠集落が普及し、径300から400メートルに及ぶ大規模な環濠を持ち、人々は濠内に集住したらしい。
 
'''後期'''では北部北九州では[[佐賀県]][[吉野ヶ里遺跡]]や大阪府の安満遺跡や[[池上・曽根遺跡]]、[[奈良県]]の[[唐古・鍵遺跡]]などの大規模環濠集落が挙げられる。