「マルクス・トゥッリウス・キケロ」の版間の差分

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マニリウス法について
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しかし、アントニウスとオクタウィアヌスの間に[[三頭政治|第二回三頭政治]]が成立したことにより、キケロは、失脚してしまう。キケロを亡き者にしたいというアントニウスの要求にオクタウィアヌスが屈するというかたちで、[[プロスクリプティオ]]の名簿にキケロを公示した。そのため、ブルトゥスらが勢力を持っていた[[マケドニア属州]]へと向かったものの、[[紀元前43年]][[12月7日]]、アントニウスの放った刺客により暗殺された。このとき、キケロの首だけでなく右手も切取られて、[[フォロ・ロマーノ|フォルム・ロマヌム]]に晒されることとなった。
 
[[紀元前30年]]、アントニウスは、[[アクティウムの海戦]]に敗れて自死した。このとき、キケロの息子[[マルクス・トゥッリウス・キケロ・ミノル]](小キケロ)は、ローマの執政官であったが、アントニウスの一切の名誉を取り消し、アントニウス家の者は今後「マルクス」の名を使うことを禁ずることを可決した。
 
== キケロの政治構想 ==