「大橋訥庵」の版間の差分

 
=== 挙兵計画 ===
これと前後して、訥庵は門弟とともに[[輪王寺|輪王寺宮]]を擁立して攘夷の兵を挙げることを画策している<ref>『宇都宮市史』467-468頁</ref>。しかし十分な人数が集まらず計画を中止するに至った<ref name=ut468>『宇都宮市史』468-469頁</ref>。これは水戸側に挙兵よりも老中暗殺を優先させたい意向が強く働いたためである<ref name=ut468/>。ここに至って、訥庵は老中暗殺に向けて計画を立てることとした<ref>『宇都宮市史』469頁</ref><ref name=to1212>『栃木県史』1212頁</ref>。当初、決行日を同年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]に定めたが、[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]に水戸側からの延期の要請があり決行日を[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]に延期した<ref name=to1212/><ref>『宇都宮市史』470頁</ref>。[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]、訥庵の義弟の[[菊池教中]]が児島強介に訥庵あての書状を託している<ref name=ut471>『宇都宮市史』471頁</ref>。書状の中で、教中は老中暗殺後に生き残った志士がおればその者に[[会津藩]]邸に直訴させて会津藩に攘夷の協力を求めることを提案している<ref name=ut471/>。訥庵はこの提案に反対し、老中暗殺が成功するか否かに関わらず襲撃後に全員自決する覚悟がなければ計画が成功するはずがないと教中あての返書で述べ、強介に返書を託した<ref name=ut471/>。[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]、訥庵は宇都宮藩の志士と会談し、決行を年明けに延期し、老中暗殺後に朝廷に使者を送って攘夷の勅命を出すことを要請、[[徳川慶喜|一橋慶喜]]を擁立して日光山にて挙兵することを確認している<ref name=ut471/><ref name=to1212/>。
 
=== 坂下門外の変 ===