「佐藤勝彦 (画家)」の版間の差分

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== 略歴 ==
7歳で生家の[[岡山県]][[賀陽町]](現・[[吉備中央町]])に引き揚げたのち[[岡山県立高梁高等学校]]を経て、[[1958年]]国立[[鳥取大学]]学芸学部入学。[[1960年]]、重度の[[結核]]で入院するが快癒。以来プラス思考に転じる
 
1963年、私立[[帝塚山学園]][[小学部]]で[[教師]]となるも、[[1968年]]、[[中川一政]]の作品展に影響を受け創作活動を開始。[[1974年]]、[[辻村史朗]]に刺激され作陶も手がける。 [[1975年]]、[[季刊『銀花』]](第24号([[文化出版局]]) 」)の「佐藤勝彦現代仏道人生」特集号(一冊ごとに一枚の肉筆画を挿入)に挿入するため8万5千枚の肉筆画を描き話題となる。[[1986年]]、帝塚山学園退職。[[2003年]]、第79回[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]公式ポスターを制作
[[1960年]]、重度の[[結核]]で入院するが快癒。以来プラス思考に転じる。
 
1963年、私立[[帝塚山学園]][[小学部]]で[[教師]]となるも、[[1968年]]、[[中川一政]]の作品展に影響を受け創作活動を開始。[[1974年]]、[[辻村史朗]]に刺激され作陶も手がける。 [[1975年]]、[[季刊『銀花』]]([[文化出版局]]) 」「佐藤勝彦現代仏道人生」に挿入するため8万5千枚の肉筆画を描き話題となる。
 
[[1986年]]、帝塚山学園退職。[[2003年]]、第79回[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]公式ポスターを制作。
 
== 個展・業績ほか ==