「ヴィッセル神戸」の版間の差分

運営会社の筆頭株主だったダイエー(資本金10億円のうち、50%を出資)が震災の影響から3月に撤退した。当時強化部長だった安達貞至がスポンサー獲得に奔走、5月31日に運営会社の商号を株式会社ヴィッセル神戸に変更。ユニフォームにも白と黒のストライプにオレンジのラインが襟と袖に入っていたがダイエー撤退に伴い、オレンジからエメラルドグリーン(ヴィッセルブルー)に変更した。
 
[[1996年]]、リーグ後半戦となる16節を前に当時現役[[サッカーデンマーク代表|デンマーク代表]]の[[ミカエル・ラウドルップ]]が加入<ref>[[週刊サッカーマガジン]] 1996年9月11日 no.571号 p.26-28 [[ベースボールマガジン社]]</ref>。最終節でNTT関東に3-1で勝利したことで、[[ジャパンフットボールリーグ]](JFL)準優勝<ref>[[週刊サッカーマガジン]] 1996年11月13日 no.580号 p.118-121、 JFL第29-最終節 ヴィッセルJ昇格、優勝目指して最後の戦い [[ベースボールマガジン社]]</ref>、1997年シーズンからJリーグへ加盟した<ref name="jleague" />。1997年、リーグ第2節の[[名古屋グランパスエイト]]戦では永島昭浩が2ゴールを挙げ、チームはJリーグ初勝利を挙げた<ref>{{cite web|url=https://www.vissel-kobe.co.jp/match/result97.html| title=ヴィッセル神戸 1997| publisher=ヴィッセル神戸| accessdate =21 January 2021}}</ref><ref>{{cite web|url=https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=2880| title=1997Jリーグ 1stステージ 第2節| publisher=data.j-league| accessdate =21 January 2021}}</ref>。同年、Jリーグ史上初の[[Jリーグアウォーズ|フェアプレー賞(高円宮杯)]]を受賞した。1998年は韓国代表FW[[金度勲]]を獲得し、永島との強力2トップを要したものの、シーズン途中には16連敗を喫するなど低迷。J1参入決定戦で札幌を下して何とかJ1残留を決めた。1999年は監督に[[川勝良一]]が就任。2ndステージは7位となり、2016年に更新されるまで長年クラブの最高順位記録だった。
 
[[2000年]]、DF[[海本慶治]]がクラブ初の代表選手に選ばれた。2ndステージは連敗が続くなど苦しい戦いながらJ1に残留を果たした。この年限りで永島が現役を引退した。
[[2003年]]、新たに[[副島博志]]を新監督に迎え、公式戦3連勝スタートを切ったが、1stステージ第14節大分戦ではワースト記録となる8失点で敗れるなど、年間通して多くの失点を喫する(リーグワースト63失点)。それでも終盤にカズ、播戸らの活躍で最終節を待たずして残留を決めた。
 
{{要出典範囲|ダイエー撤退後、{{要出典範囲|メインとなるスポンサーは現れずに苦しい経営が続き、毎年赤字を計上。Jリーグ昇格1年目の[[1997年]]末時点での累積赤字は約25億円|date=2013年12月}}。[[1998年]]シーズン終了後には[[伊藤ハム]]がユニフォーム胸スポンサーから撤退。{{要出典範囲|この補填のため神戸市から9億円の無利子融資を受けたが、条件としてチームのリストラを要求される他、運営会社も減資を行い年間予算も13億円まで大幅に切り詰めた。|date=2013年12月}}
 
{{要出典範囲|母体企業を持たない神戸の年間予算は他クラブと比較しても少なく、年間入場者数も伸び悩んだ為、不足分を地元自治体である神戸市からの単年度貸付に拠らざるを得ない経営が続き、年度ごとに額を増やしながら借入を繰り返した。|date=2013年12月}}2003年12月15日、運営会社の株式会社ヴィッセル神戸は[[東京地方裁判所]]に[[民事再生法]]の適用を申請した<ref name="j040120"/><ref name="history2003">{{cite web|url=http://www.vissel-kobe.co.jp/club/history/2003.html|title=クラブヒストリー2003|work=ヴィッセル神戸|accessdate=2013-3-4}}</ref>。{{要出典範囲|累計赤字約42億円で神戸市からの無担保融資は約15億円にのぼった。|date=2013年12月}}