「独立派 (宗教)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m bot: 解消済み仮リンク第五王国派平等派を内部リンクに置き換えます
m編集の要約なし
7行目:
独立派の発端は1620年代に始まり、イングランド国教会を国民に強制する国王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]と側近の[[カンタベリー大主教]][[ウィリアム・ロード]]のピューリタンへの弾圧が強まったため、それに危機感を抱きイングランドに居づらくなり、海外へ安住の地を求めたピューリタンが結成したのが独立派で、会衆派の流れをくむ独立派は[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]と[[北アメリカ]]・[[ニューイングランド]]の[[マサチューセッツ湾植民地]]に亡命、そこで教会(独立組合教会、ニューイングランド方式とも)を拠点として同志を増やした。背後にはピューリタンのパトロンとなった貴族および[[ジェントリ]]と市場開拓を狙う新興商人と利害が一致した事情もあり、[[ウォリック伯]][[ロバート・リッチ (第2代ウォリック伯)|ロバート・リッチ]]らが支援した{{仮リンク|プロヴィデンス島会社|en|Providence Island Company}}を通してニューイングランドへ入植、人と情報のネットワークを発展させた独立派ピューリタン達は清教徒革命で活躍する人材を提供していった<ref name="松村352"></ref><ref>清水、P10 - P12、岩井(2015)、P11 - P12、P74 - P77、P87 - P91。</ref>。
 
後に指導者となる人々は[[ケンブリッジ大学]]出身者が多く、大学で知り合い交流を深めた{{仮リンク|トマス・グッドウィン|en|Thomas Goodwin}}、{{仮リンク|ウィリアム・ブリッジ|en|William Bridge}}、{{仮リンク|ジェマイア・バローズ|en|Jeremiah Burroughs}}、{{仮リンク|サイドラック・シンプソン|en|Sidrach Simpson}}、{{仮リンク|フィリップ・ナイ|en|Philip Nye}}(唯一[[オックスフォード大学]]卒業)の5人はオランダ亡命を経て帰国後の[[1644年]]に『弁明の言葉』を起草、独立派の形成に関わった。他にも[[ヒュー・ピーター]]はケンブリッジ大学卒業後は国教会の聖職者として過ごしたが、ロード派の弾圧で職を失いオランダ、アメリカへ亡命、革命直前に帰国してイングランドで活躍した。グッドウィンに大きな影響を与えた{{仮リンク|ジョン・コットン (牧師)|en|John Cotton (minister)|label=ジョン・コットン}}もケンブリッジ大卒の国教会聖職者でありながらロード派の弾圧でアメリカへ亡命、独立教会を通して説教しながら革命の動向を探るため、帰国しなかったが親交があるグッドウィンやナイと連絡を取り合い、アメリカとイングランドの結びつきを保った<ref group="注">初めは信仰心が揺らいでいた者もおり、グッドウィンは一時[[アルミニウス主義]]へ接近、それを振り切ってピューリタンになった後も公職に就いて国教会に忠実だった。しかしロード派によるピューリタン弾圧に引っ掛かり、国教会への忠誠を拒否して公職を去ってからは他の独立派牧師と共に亡命と布教生活を送り、コットンの説得で独立派に傾倒、ロードが議会に排除されてから独立派で台頭していった。ナイも後にコットンによって独立派に改宗した。岩井(2015)、P93 - P94、P114 - P115。</ref><ref>岩井(1995)、P92 - P95、P108 - P110、岩井(2015)、P91 - P95、P98 - P100、P220 - P221。</ref>。
 
コットンら独立派ピューリタンは亡命して独立教会を拠点に布教したが、故郷の状況も気掛かりで連絡を取り合い、イングランド側のピューリタンもアメリカへ支援を送ったり、亡命先から帰国した同志を通して情報を交換し合い、互いに影響を受けつつ先住民の改宗やピューリタンの著作活動を支援したりしている。また当時流布していた[[千年王国]]思想を現実の社会状況になぞらえ、親[[カトリック教会|カトリック]]と見られた現体制打破を呼びかける説教を行い、革命の正当化と新たな社会の到来を予感させる風潮を世間に浸透させることに尽力した<ref>岩井(1995)、P79、P110 - P112、岩井(2015)、P118、P130 - P133。</ref>。
21行目:
 
=== 共和国時代、王政復古後 ===
[[国務会議 (イングランド)|国務会議]]議長、ニューモデル軍副司令官(後に司令官)として軍と独立派で台頭したクロムウェルは平等派の再度の暴動を鎮圧、続いて王党派の[[アイルランド王国|アイルランド]]・スコットランドをそれぞれの遠征([[クロムウェルのアイルランド侵略]]・第三次イングランド内戦)で平定、[[1651年]]の[[ウスターの戦い]]で内戦に終止符を打った。しかし保守派が主流になったランプ議会はクロムウェルら軍と対立し[[1653年]]4月に解散、7月にクロムウェルは第五王国派や独立教会などの協力で[[ベアボーンズ議会]]を召集したが、12月に解散し軍の後押しで[[護国卿]]となったクロムウェルの下で護国卿時代が開始された。独立派はグッドウィン、ナイが{{仮リンク|ジョン・オウエン (神学者)|en|John Owen (theologian)|label=ジョン・オウエン}}らと共に護国卿政権に協力したが、従来からの議会と軍の対立が政争に発展していった<ref name="松村353"></ref><ref>今井、P217 - P221、P224 - P228、清水、P158 - P163、P170 - P176、P184 - P186、P204 - P206、P213。</ref>。
 
独立派はクロムウェルらと結びつき、側面から革命を支援した。従軍牧師として革命にのめりこんだピーターはしばしば説教でニューモデル軍兵士や議員達を鼓舞、長老派論客と討論して独立派の立場を弁護したり、チャールズ1世処刑を正当化する説教を行い独立派を後押しした。また共和国の下で公職に復帰したグッドウィンも宗教政策でクロムウェルに協力、オックスフォード大学{{仮リンク|モードリン・カレッジ (オックスフォード大学)|en|Magdalen College, Oxford|label=モードリン・カレッジ}}の学長に任命されオウエン、ピーターと共に[[サヴォイ宣言]]を起草、独立派の勢力拡大に尽力した<ref group="注">グッドウィンは王党派の牙城だったオックスフォード大学の再建に関わり、イングランド各地で独立教会を設立し、ピーターは亡命体験と協力者の新興商人グループの活動を通し、アメリカとオランダをモデルにした宗教と経済政策を提言、著作で実現を訴えた。また両者は聖職者の資格を審査する権限を与えられ、サヴォイ宣言など共和国の宗教政策に深く関与した。オウエンとナイもグッドウィンやクロムウェルと共和国の宗教について協議、[[1654年]]3月に聖職者を資格審査する{{仮リンク|審査委員会|en|Commission of Triers}}が設置、8月には審査で不適格とされた聖職者を追放する追放委員会が設置された。この政策は宗教における寛容に基づいた国民的和合を実現させることが目的で、内戦の最中である[[1646年]]に廃止を宣言された監督制(国教会)に代わり新たな教会制度に長老派・独立派・バプテストを中心にした国家教会を確立、その周りは国家から存続を許された他の宗教を並立させるという二重体制を実現させるべく尽力したが、保護から外れたカトリックと国教会、およびアナバプテスト・クエーカー・第五王国派の反対に遭い、クロムウェルの死亡と共に挫折、国家教会は実現しなかった。松村、P760、清水、P192 - P193、P244 - P246、岩井(2015)、P102、P116、P223 - P239。</ref><ref>岩井(2015)、P115 - P116、P221 - P223、P227。</ref>。
 
だが、[[1658年]]にクロムウェルが死亡すると独立派の運命も暗転する。[[1660年]]の王政復古でピューリタンに対する反動が起こり、国教会が復権して再びピューリタンへの弾圧が行われたからである。グッドウィンとブリッジは公職追放、ピーターは[[王殺し]]ではなかったがチャールズ1世処刑裁判を積極的に賛成したことをとがめられ処刑、[[クラレンドン法典]]制定で独立派は弾圧され衰退した<ref name="松村353"></ref><ref>清水、P265 - P267、岩井(2015)、P116 - P117、P158、P223、P240。</ref>。