「アメリカ合衆国における政教分離の歴史」の版間の差分

m
編集の要約なし
m
 
== 近世イングランドにおける宗教と国家 ==
=== イングランド国教会の成立 ===
[[イングランド王国|イングランド]]は[[597年]]の[[カンタベリーのアウグスティヌス]]の渡英以降[[カトリック教会]]の一員であった。しかし、男子に恵まれなかったイングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]が[[スペイン]]王女[[キャサリン・オブ・アラゴン|キャサリン]]王妃と離婚し[[アン・ブーリン]]と再婚しようとして[[教皇]][[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]に承認を求めた所、ローマ教会はキャサリンの甥に当たるスペイン王兼[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の支配下にあったために教皇は承認できなかった<ref name=UK1>世界各国史11 イギリス史,山川出版社,1998,pp.143-164.</ref>。これに反発したヘンリー8世は[[1529年]]からローマ教会の権限を制限していき、側近の[[トマス・クロムウェル]]の力を借りて次々とローマ教会と決別する法律を施行、[[1533年]]の{{仮リンク|上告禁止法|en|Statute in Restraint of Appeals}}ではイングランドは完全の独立国家であり、教会の決定権は国王にあると宣言した<ref name=UK1/>。[[カンタベリー大司教]](後に[[カンタベリー大主教]]に変更)[[トマス・クランマー]]は離婚と再婚を合法としたが、教皇は王を[[破門]]した<ref name=UK1/>。[[1534年]]の[[国王至上法]]で国王をイングランド教会の首長として[[イングランド国教会]]が成立し、ローマ教会から独立した<ref name=UK1/><ref name=yUK>八代崇「イングランド教会」日本大百科全書(ニッポニカ)</ref>。こうして世俗国家による教会支配である[[政教一致|国家教会]]体制が始まった<ref name=iwaibun>岩井淳「ピューリタン革命と政教分離」『歴史のなかの政教分離』彩流社、pp.23-43.</ref>{{Refnest|group=注釈|イングランドでは国教会によって[[政教一致|国家教会体制]](国民教会制度<ref name=kabayama/>)が維持され、イングランド絶対王政の支柱となった<ref name=iwaibun/>。ただし、国教会の指導者は神意を代弁する権威を欠き、純粋な[[神政政治]]に移行しなかったともされる<ref name=kabayama>[[樺山紘一]]「キリスト教と国家」歴史学事典第12巻 王と国家</ref>。}}。
 
ヘンリー8世は[[修道院]]財産を没収し、さらに{{仮リンク|修道院解散|en|Dissolution_of_the_Monasteries}}を命じると、解散に反対した信徒が[[リンカンシャー]]や[[ヨークシャー]]で蜂起({{仮リンク|恩寵の巡礼|en|Pilgrimage of Grace}}[[1536年]])したが鎮圧された<ref name=UK1/>。[[1539年]]には大修道院解散法で総計130万[[ポンド (通貨)|ポンド]]の修道院財産を没収したが、[[フランス王国|フランス]]と同盟を組んだ[[スコットランド王国|スコットランド]]との[[1544年]]の戦争での戦費供出のため、貴族、[[ジェントリ]]へ売却した<ref name=UK1/>。このようにイングランドの宗教改革はプロテスタントを反映しておらず、王もカトリックを信仰しており、[[監督制|主教制]](教会内階層)も存続したままだった<ref name=UK1/>。カトリック派の[[ノーフォーク公]][[トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]やウィンチェスター主教は1539年の6カ条法で[[化体説]]にもとづき、パンのみの[[聖餐]]や[[告解]]が指示された<ref name=UK1/>。
 
[[1547年]]にヘンリー8世が没し、幼少の[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]が即位したが、ノーフォーク公から実権を握ったのはエドワード6世の母方の伯父でプロテスタントの[[ハートフォード侯爵|ハートフォード伯]]([[サマセット公]])[[エドワード・シーモア (初代サマセット公)|エドワード・シーモア]]であった<ref name=UK1/>。摂政([[護国卿]])となったサマセット公は6カ条法などプロテスタントを妨害する法を廃止、[[1549年]]の{{仮リンク|礼拝統一法 (1549年)|label=礼拝統一法|en|Act of Uniformity 1549}}ではラテン語でなく英語による礼拝を義務づけ、[[デヴォンシャー]]と[[コーンウォール]]では[[ラテン語]]礼拝を求めて反乱が起きた<ref name=UK1/>。[[1553年]]には化体説を否定した(42カ条法)<ref name=UK1/>。一方で教会財産の没収は続き、サマセット公の財産は増えていった<ref name=UK1/>。しかし、1549年の農民反乱({{仮リンク|ケットの反乱|en|Kett's Rebellion}})にサマセット公は適切な対策がとれず、逮捕されて[[ロンドン塔]]へ監禁された後処刑、[[ウォリック伯]]([[ノーサンバーランド公爵|ノーサンバランド公]])[[ジョン・ダドリー (初代ノーサンバランド公)|ジョン・ダドリー]]が実権を握った<ref name=UK1/>。ノーサンバランド公も教会の財産を没収し、宝石や鐘など礼拝に不要な用具を没収した<ref name=UK1/>。更にはエドワード6世の異母姉で王位継承者であったカトリック教徒の[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー]](メアリー1世)から権利を奪おうと策謀をめぐらしたが、失敗してノーサンバランド公は処刑された<ref name=UK1/>。
 
初の女王となったカトリック教徒のメアリー1世は、ヘンリー8世時代以来の諸法を廃止しカトリック教会へ復帰した<ref name=UK1/>。ローマからの使節[[レジナルド・ポール]]はカンタベリー大司教となった<ref name=UK1/>。一方でプロテスタントは弾圧され、300人の聖職者や信徒が火刑となった<ref name=UK1/>。また、女王は[[アストゥリアス公]]フェリペ(後のスペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]])と結婚し、イングランドとスペインの同盟が成立した<ref name=UK1/>。しかしフェリペはスペイン王となると、教皇とむすんだフランスと開戦し、イングランドも参加したが苦戦し、大陸の領土[[カレー (フランス)|カレー]]をフランスに奪われた<ref name=UK1/>。
 
メアリー1世の死後即位した異母妹の[[エリザベス1世]]は[[1559年]]の国王至上法で、国王は教会の統治者(首長ではない)とされた<ref name=UK1/>。エリザベス1世は穏健なカトリックを包摂するよう政策をとっていったが、これにプロテスタントの立場から批判していく勢力の改革派が発生し、「清教徒([[ピューリタン]])」と揶揄された<ref name=UK1/>。ただし、国教会内部での方針に関する対立であったので、国教会とピューリタンを明確に区別することは不可能であるとされる<ref name=UK1/>。
 
フランス王妃となっていた[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー・ステュアート]]女王が夫の死後にスコットランドに帰国すると、すでにスコットランドでは[[ジョン・ノックス]]が宗教改革を断行していたため、メアリーによるカトリック復古政策に反発した貴族によってメアリーは追放された<ref name=UK2>世界各国史11 イギリス史,山川出版社,1998,pp.165-166.</ref>。イングランドに亡命したメアリーを、エリザベス1世打倒のために[[ノーサンバランド伯]][[トマス・パーシー (第7代ノーサンバランド伯)|トマス・パーシー]]や[[ウェストモーランド伯爵|ウェストモーランド伯]][[チャールズ・ネヴィル (第6代ウェストモーランド伯)|チャールズ・ネヴィル]]らが利用して[[1569年]]{{仮リンク|北部諸侯の乱|en|Rising of the North|label=反乱}}を起こしたが失敗した<ref name=UK2/>。カトリック教徒が反乱を支持しなかったことに不満を抱いた教皇は女王を破門したが、対抗して女王はカトリック弾圧政策をとっていった<ref name=UK2/>。こうしてエリザベス1世時代には、教義はプロテスタント、教会政治と礼拝様式はカトリックの国教会体制が確立した<ref name=yUK/>。
 
=== 清教徒革命:1640年-1660年 ===
エリザベス1世時代には[[カルヴァン主義]]のピューリタンが信教の自由、[[良心の自由]]を主張し、国教会からカトリック色を一掃して教会改革を徹底するよう要求を繰り返した<ref name=iwaibun/>。このためピューリタンはイギリスにおける宗教が国家や公定教会から解放される政教分離の先駆者とされるが、[[岩井淳 (歴史学者)|岩井淳]]によれば、ピューリタンの[[独立派 (宗教)|独立派]](Independents, インディペンデンツ)にはカトリックや[[騎士党|王党派]]を「[[反キリスト]]」とする[[千年王国]]論や不平等な[[選民|選民思想]]があったため、他教を認めるような信教の自由を主張したとはいえないのに対して、[[イングランド国教会の分離派|分離派]](セパラティスト)は「宗教的自由」を、[[平等派]](水平派、レヴェラーズ)は「政治的自由」を追求した<ref name=iwaibun/>。ピューリタンは国教会側から迫害されたが、[[清教徒革命]]の勢力として影響力を行使した<ref name=iwaibun/>。[[17世紀]]の1640年代前半、[[円頂党|議会派]]は国王との妥協をはかり、全国的な教会組織を計画する[[改革長老教会|長老派]]と、国教会から分離し、[[会衆派教会|会衆教会(コングリゲーション)]]を基本単位として個々の教会の自主性を要求した独立派に分裂した<ref name=iwaibun/><ref name=bunri>ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「独立派」、百科事典マイペディア「独立派」、世界大百科事典 第2版「独立派」</ref>。{{仮リンク|トマス・グッドウィン|en|Thomas Goodwin}}や{{仮リンク|シドラック・シンプソン|en|Sidrach Simpson}}ら独立派は[[オリバー・クロムウェル]]指揮下の軍事力を背景に長老派や平等派を退けて、王政を倒して樹立した[[イングランド共和国]]の実権を握り、清教徒革命の中心勢力となった<ref name=iwaibun/><ref name=bunri/>。
 
ピューリタン側は[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]に対して宗教改革を迫ったが、[[王権神授説]]を信奉していたジェームズ1世は「主教なければ国王なし」と国教会体制を堅持した<ref name=UK3>世界各国史11 イギリス史,山川出版社,1998,pp.179-191.</ref>。[[1605年]]の[[火薬陰謀事件]]でカトリック教徒が議会に爆弾をしかける王と議員の[[暗殺]]未遂が起こり、メアリー1世時代の新教徒迫害を描いたジョン・フォックスの『殉教者の書』の影響、またスペインやフランスなどカトリック大国の脅威などによって反カトリック意識が高まった<ref name=UK3/>。[[三十年戦争]]ではプロテスタント側に立って参戦することが期待されたが、財政難などのため参戦せず、議会で王はスペインへの従属的な態度が非難され、王は反カトリック意識の標的とされていった<ref name=UK3/>。
 
[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]は[[1625年]]にフランスからカトリックの王妃[[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス|ヘンリエッタ・マリア]]を迎え、親カトリック政策を展開し、議会の同意を得ずに外交や課税を強行し、[[国王大権 (イギリス)|国王大権]]を行使したため、[[1628年]]に議会は[[権利の請願]]を提出した<ref name=UK3/>。王は議会を解散し、反対派を投獄、以後11年にわたって専制政治を敷いた<ref name=UK3/>。[[ロンドン主教]][[ウィリアム・ロード]](後にカンタベリー大主教)と[[アイルランド総督 (ロード・デピュティ)|アイルランド総督]][[トマス・ウェントワース (初代ストラフォード伯爵)|トマス・ウェントワース]](後に[[ストラフォード伯爵|ストラフォード伯]])は、国王大権裁判所([[星室庁]]と[[高等宗務官裁判所]])を用いて反対派やピューリタンを弾圧した<ref name=UK3/>。[[1637年]]、長老派を国教とするスコットランドに対して、チャールズ1世は国教会の儀式を強制するとスコットランドは反発し、[[1639年]]には[[主教戦争]]となり、イングランドは敗北した<ref name=UK3/>。議会は専制政治の支柱であったロードとストラフォード伯を逮捕して処刑し、専制政治を制限する諸法を制定した<ref name=UK3/>。
 
[[1641年]]{{仮リンク|アイルランド反乱 (1641年)|en|Irish Rebellion of 1641|label=アイルランド反乱}}でイングランド人数千人が虐殺されると、「20万人から30万人の大虐殺」であると誇張されたデマが流され、反カトリック意識が高まった<ref name=UK3/>。同年、議会派は国王、主教、イエズス会を「迷信を重んじている者」として批判した[[議会の大諫奏|大抗議文]]を提出した<ref name=UK3/>。チャールズ1世が[[1642年]]に戦闘準備をすると、議会は3月に[[民兵条例]]で軍事権を掌握し、6月の[[19か条提案]]で議会主権を主張して、8月には王党派(キャヴァリア、騎士党)と議会派(ラウンドヘッド、円頂党)が全面衝突して[[イングランド内戦]]({{仮リンク|第一次イングランド内戦|en|First English Civil War}})がはじまった<ref name=UK3/>。クロムウェル率いる議会軍はスコットランドに同盟を持ちかけ[[1643年]]に[[厳粛な同盟と契約]]が成立するが、スコットランドは長老派体制の採用を条件としたため、これを容認した長老派と、国王との徹底抗戦を主張する独立派にわかれた<ref name=UK4>世界各国史11 イギリス史,山川出版社,1998,pp.191-205.</ref>。独立派には[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]からの帰国者が多く、カトリックを「反キリスト」とさえ非難した<ref name=UK4/>。[[1645年]]に[[ネイズビーの戦い]]で[[ニューモデル軍]]として再編された議会軍は国王軍を潰滅、[[1646年]]に第一次内戦は終結した<ref name=UK4/>。
 
議会軍の多くはセクトと呼ばれる分離教会に所属し、独立派は国家教会に代わる諸派が許容される体制を模索した<ref name=UK4/>。{{仮リンク|ウィリアム・ウォルウィン|en|William Walwyn}}{{仮リンク|リチャード・オーヴァバートン (平等派)|en|Richard Overton) (Leveller)|label=リチャード・オーバートン}}、[[ジョン・リルバーン]]らを指導者とする平等派は成人男子の[[普通選挙]]や人民主権、人権思想を主張した<ref name=iwaibun/><ref name=UK4/>。ウォルウィンは1645年の著作で「いかなる人も宗教の問題で他人の強制を受けることはできない」と述べ、オーヴァバートンは「トルコ人、異教徒、ユダヤ人などの不信心の徒であっても彼等の殺害はキリストの意思にそむく」と主張した<ref name=iwaibun/><ref>1645年の著作「The Araignement of Mr.Persecutin」</ref>。国教会を批判したため[[鞭打ち|鞭打ち刑]]・[[晒 (刑罰)|さらし刑]]に処されたリルバーンは『獣の所業』で「神ご自身のお声が選民のすべてにー彼らは長い間、この反キリストの奴隷的権力と国のもとで生きてきたのだがーその権力と国への服従と隷属をやめることを、ついに命じておられる」と選民思想を主張した<ref name=iwaibun/>。平等派は手工業者や小商人、一般兵士にも浸透し、平等派の兵士はアジテーターを代表として人民主権からの改革を求めたため、独立派軍幹部は[[1647年]]10月に[[パトニー討論]]を開いた<ref name=UK4/>。会議で平等派の兵士は「発言権をもたない政府への服従義務はない」とする『[[人民協定]]』を提出し、普通選挙権を主張した。一方、軍幹部で『[[建議要目]]』を作成した[[ヘンリー・アイアトン]]は[[制限選挙]]を主張して譲らなかった<ref name=UK4/>。
 
[[1648年]]4月、王はスコットランドと組んで{{仮リンク|第二次イングランド内戦|en|Second English Civil War}}を開始したが、議会軍は[[プレストンの戦い (1648年)|プレストンの戦い]]でスコットランド軍を撃破した<ref name=UK4/>。12月には長老派が独立派から追放([[プライドのパージ]])され、議会は独立派のみとなり、[[ランプ議会 (イングランド内戦)|ランプ議会]](残部議会)と呼ばれた<ref name=UK4/>。[[1649年]]、クロムウェルらが裁判官となり、チャールズ1世は「専制君主、反逆者、殺人者、国家の公敵」として処刑された<ref name=UK4/>。イングランド共和国が成立した後、独立派は平等派や[[真正水平派]](ディガーズ、ランターズ、[[クエーカー]]を弾圧した<ref name=UK4/>。
 
独立派は[[会衆教会|会衆教会]]を設立していったが、独立派以外の分離主義者である特殊[[バプテスト教会]](パティキュラー・バプテスト普遍ジェネラル・バプテスト、セパラティストも教会を次々と建設し、これら分離派は独立派を中心に同盟を結成した<ref name=iwaibun/>。イングランドの国家教会体制に対して独立派は末端に会衆教会を設立したことで、複数の宗派の共存を可能とする政教分離への道を切り開いたとされる<ref name=iwaibun/>。しかし、独立派教会の入会審査は厳しく、1647年のロンドン会衆教会宣言では「すべての人間が思慮分別や適性をもっているとは限らない」ため、人間の平等を認めることは人間社会にとって大きな障害となるとして平等を否定する[[選民|選民思想]]があった<ref name=iwaibun/>。ただし、選民思想に裏付けられた使命感によって清教徒革命における戦闘的な姿勢の維持が可能であった<ref name=iwaibun/>。クロムウェルは宗教的な自由は基本的な自由であり自然権であると述べたが、独立派聖職者の起草案では独立派のみが正統と宣言し、クエーカー教徒(キリスト友会)やランターなどの信教の自由は認められず、近代的な政教分離論や幅広い信教の自由を随伴してはいなかった<ref name=iwaibun/>。他方、特殊パティキュラー・バプテストのサミュエル・リチャードソンは、クロムウェル政府は有史以来初の宗教の自由を享受しており、当局が宗旨変えをしても従わなければ迫害を受けることもないと評価した<ref name=iwaibun/><ref>リチャードソン,1656年著書「率直な扱い」</ref>。
 
一方、[[アイルランド王国|アイルランド]]は国王派とカトリックが同盟していたため、イングランドは[[クロムウェルのアイルランド侵略|アイルランドを攻撃して征服し]]、植民地化した<ref name=UK4/>。また、同じく反革命勢力とみなされたスコットランドを{{仮リンク|第三次イングランド内戦|en|Third English Civil War}}で征服した後併合し、国王の遺児[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]はフランスへ亡命した<ref name=UK4/>。[[1653年]]に護国卿に就任したクロムウェルの共和国政権ではイングランド、スコットランド、アイルランド、植民地、ヨーロッパのプロテスタントを保護し、ヨーロッパ大陸の[[ユグノー]]を援助し、カトリック勢力に打撃を与えることが目標とされた<ref name=UK4/>。しかし[[1658年]]にクロムウェルが死去すると、息子[[リチャード・クロムウェル]]が護国卿に就任するが混乱を収拾できず、翌[[1659年]]に職を退いて政権が崩壊し、[[1660年]]4月には[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]が復活した<ref name=UK4/>。
 
=== 王政復古から寛容法まで:1660年-1689年 ===
1660年5月、チャールズ2世が亡命先から帰国し、[[イングランド王政復古|王政復古]]が実現した<ref name=UK4/>。腹心の[[クラレンドン伯爵]][[エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵)|エドワード・ハイド]]が起草した[[ブレダ宣言]]では革命関係者の大赦がなされ、[[信教の自由|信仰の自由]]が明記された<ref name=UK4/>。しかし、報復は避けられず、「[[王殺し]]」の[[トマス・ハリソン (軍人)|トマス・ハリソン]]、[[ヘンリー・ベイン]]ら14人が処刑された<ref name=UK5>世界各国史11 イギリス史、山川出版社、1998,pp.206-211.</ref>。[[1661年]]に[[第五王国派]]が武装蜂起すると、「[[クラレンドン法典]]」と総称される清教徒弾圧を立法していった<ref name=UK5/>。[[非国教徒 (イギリス)|非国教徒]]は公務員になれないとする自治体法、国教会以外の宗教集会を禁止する秘密礼拝禁止法、王に忠誠を誓わない非国教派の聖職者を5[[マイル]]以遠に追放する5マイル法が制定された<ref name=UK5/>。
 
==== 反カトリック意識と王位継承者排除法 ====
[[1662年]]12月、チャールズ2世はカトリックを保護するための「信仰自由宣言」を出したが、議会が撤回させた<ref name=UK5/>。[[1670年]]にチャールズ2世はフランスの[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]と[[ドーヴァーの密約]]を交わし、イングランド王がカトリックに改宗することを条件にフランスが軍事支援と年金を贈るとされた<ref name=UK5/>。[[1672年]][[信仰自由宣言 (1672年)|第二次信仰自由宣言]]でカトリックは保護された<ref name=UK5/>。しかし、これにも議会は反対し、[[審査法]]では公職からカトリックが除外され、チャールズ2世の弟で次期国王候補の[[ヨーク公]][[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ]](後のジェームズ2世)も追放された<ref name=UK5/>。[[1678年]]にはカトリックが王暗殺計画に関与していたという「教皇主義者の陰謀」が明るみにされ([[カトリック陰謀事件]])、王は騎士議会を解散し、「カトリックによる陰謀を阻止するために」議会と王が争うようになり、再び清教徒革命以前の反カトリック意識が高まっていった<ref name=UK5/>。議会はカトリックであるヨーク公を王位継承者から排除する[[王位排除法案]]が提出されると、反対派(嫌悪派)と法案賛成派(請願派)が全国規模で争われた<ref name=UK5/>。反対派(嫌悪派)はやがて[[トーリー党 (イギリス)|トーリー]]と呼ばれ、王への服従と国教会体制の堅持を原則にした<ref name=UK5/>。請願派はやがて[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ]]と呼ばれ、王権を制限して議会主権や宗教的寛容を主張し、非国教徒から支持された<ref name=UK5/>。
 
[[1679年]]には教皇の人形を焼くデモがロンドンでなされ、請願派の動きは高揚したが、王は譲歩せずに議会を解散してホイッグ弾圧を始めた<ref name=UK5/>。[[1682年]]、ホイッグの中心であった[[シャフツベリ伯爵]][[アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵)|アントニー・アシュリー=クーパー]]は[[ジョン・ロック]]らとオランダへ亡命した<ref name=UK5/>。
 
==== 名誉革命:寛容法とカトリックの排除 ====
[[1685年]]、チャールズ2世が死去し、ヨーク公がカトリックの国王ジェームズ2世として即位した<ref name=UK5/>。[[1687年]]、王は{{仮リンク|信仰自由宣言 (1687年)|en|Declaration of Indulgence|label=信仰自由宣言}}を出した<ref name=UK5/>。ジェームズ2世の背後には、[[ユグノー]]を弾圧するフランスのルイ14世がいた<ref name=UK5/>。[[1688年]]4月、王は2度目の信仰自由宣言を出したが、宣言を朗読しなかったカンタベリー大主教ら7人の[[主教]]を投獄した<ref name=UK5/>。11月、ホイッグとトーリー両党は提携して、[[オランダ総督]]ウィレムに武力による解放を招請し、総督は清教徒の保護者としてイングランドに上陸した<ref name=UK5/>。しかし、王は軍がほとんど戦意を持たないことを知って、フランスへ亡命した([[名誉革命]])<ref name=UK5/>。
 
議会は王位空白を宣言し、法と自由を明記した権利宣言を出した<ref name=UK6>世界各国史11 イギリス史、山川出版社、1998,pp.211-214.</ref>。[[1689年]]、オランダ総督ウィレムは[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]としてイングランド王に即位し、[[権利の章典]]と[[{{仮リンク|寛容法]] (1689年)|label=寛容法|en|Toleration Act 1689}}が制定された<ref name=iwaibun/><ref name=UK6/><ref name=morimotoNE/>。これは清教徒革命以来の王と議会の対立の決着であり、以後、名誉革命体制は100年以上続いた<ref name=UK6/>。
 
権利章典は議会主権であり、王は「議会の中の国王」とする[[立憲君主制]]の原則が確立したが、王位継承者からカトリックが排除され、[[1701年王位継承法|1701年の王位継承法]]でも明文化された<ref name=UK6/>。背後には、フランスへの脅威があったとされる<ref name=UK6/>。
 
[[寛容法]]、正式名「プロテスタント非国教徒を現行の諸刑罰から免除する法」では、[[三位一体]]の承認と王への忠誠の宣誓を条件として非国教徒が容認された<ref name=iwaibun/><ref name=morimotoNE/>。ただし、カトリック教徒や無神論者は除外された<ref name=iwaibun/><ref name=UK6/><ref name=morimotoNE/>。非国教徒は[[自由教会]]を創設した<ref name=yUK/>。
 
審査法や自治体法などで、公職に就くには国教会の信者でなければならないとの規定がされ、[[1828年]]の審査法廃止まで続いた<ref name=iwaibun/>。
 
植民地では[[1691年]]の特許状で、カトリックを除く宗派に「良心の自由」を認めた<ref name=morimotoNE/>。
 
カトリック教徒の宗教的・政治的自由が正式に承認されたのは、[[1801年]]の[[合同法 (1800年)|アイルランド併合]]の際に解放が約束されて以降の[[ダニエル・オコンネル|オコンネル]]の運動による[[1829年]]の[[カトリック教徒解放令]]であった<ref name=iwaibun/>。カトリック差別の背後には、フランスへの脅威やアイルランドへの敵視があったと見られている<ref name=iwaibun/>。