「ジェームズ1世 (イングランド王)」の版間の差分

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| 在位 = [[1567年]][[7月24日]] - [[1625年]][[3月27日]](スコットランド王)<br/>[[1603年]][[73月24日]] - 1625年3月27日(イングランド王)
| 戴冠日 = 1567年[[7月29日]](スコットランド王)<br/>1603年[[7月25日]](イングランド王)
| 別号 = アイルランド王<br />グレートブリテン王(非公式)
'''ジェームズ6世'''(James VI)および'''ジェームズ1世'''(James I)、チャールズ・ジェームズ・ステュアート(Charles James Stuart, [[1566年]][[6月19日]] - [[1625年]][[3月27日]])は、[[ステュアート朝]]の[[スコットランド王国|スコットランド]]、[[イングランド王国|イングランド]]、[[アイルランド王国|アイルランド]]の王。
 
スコットランド王としてはジェームズ6世(在位:[[1567年]][[7月2924日]] - 1625年3月27日)であり、イングランド王・アイルランド王としてはジェームズ1世(在位:[[1603年]][[732524日]] - 1625年3月27日)である。非公式には[[グレートブリテン島|グレートブリテン]]王の称号も用いた{{sfn|木村俊道|2003|p=143}}。スコットランド女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]]と2番目の夫であるダーンリー卿[[ヘンリー・ステュアート (ダーンリー卿)|ヘンリー・ステュアート]]の一人息子である。
 
イングランドとスコットランドの王位を初めて一身に兼ねた君主であり、各国との協調政策に尽力し「平和王」とも言われている。この後ヨーロッパで広がる「[[王権神授説]]」の基礎を作った。ただ、国王と王妃の出費から財政的には逼迫させ、議会と最終的には対立してしまう{{sfn|君塚直隆|2015|p=8-10}}。
 
== 生涯 ==
==== 相次ぐ摂政の死と誘拐 ====
[[ファイル:James VI of Scotland aged 20, 1586..jpg|thumb|left|160px|[[1586年]]頃のジェームズ]]
1567年[[2月10日]]、ジェームズが1歳の誕生日を迎える以前に、父ダーンリー卿は不審な死を遂げ、母メアリーとは引き離された。母は父の殺害事件の首謀者と疑われた第4代[[ボスウェル伯]][[ジェームズ・ヘップバーン (第4代ボスウェル伯爵)|ジェームズ・ヘップバーン]]と同年[[5月15日]]に再々婚したことでスコットランド貴族の怒りを買い、[[7月24日]]に母は廃位されボスウェル伯は亡命、ジェームズは5日後の[[7月29日]]に1歳1か月でスコットランド王位に就いた。メアリーは翌[[1568年]]に再起を図ったが失敗しイングランドへ亡命、以後[[1587年]]に処刑されるまでジェームズ6世と会うことはなかった。即位後、メアリー側の勢力とジェームズ6世を擁した勢力との間で、内戦が5年ほどの間続いた({{仮リンク|メアリアン内戦|en|Marian civil war}})。この内戦は[[1573年]]にイングランドがスコットランドへ援軍を派遣して介入、メアリー派が籠城する[[エディンバラ城]]をジェームズ6世派が落とし残党を処刑することによって終息した{{sfn|森護|1988|p=285-290,297}}{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=230-235}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|石井美樹子|2009|p=336-337,386-387}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=26-28,34-35}}。
 
ジェームズ6世の即位後しばらくの間は摂政が置かれ、17歳になるまで実質的な政務を執ることはなかった。最初の摂政はメアリーの庶出の兄で王の母方の伯父に当たる初代[[マリ伯爵]][[ジェームズ・ステュアート (初代マリ伯爵)|ジェームズ・ステュアート]]であったが、[[1570年]]にメアリーの支持者によって[[暗殺]]された。次いで、ダーンリー卿の父で王の父方の祖父に当たる{{仮リンク|レノックス伯|en|Earl of Lennox}}[[マシュー・ステュアート (第4代レノックス伯)|マシュー・ステュアート]]が摂政となったが、この祖父も[[1571年]]に国内の紛争で殺害された。マリ伯の母方の伯父で3人目の摂政となった[[マー伯爵]][[ジョン・アースキン (第18代マー伯)|ジョン・アースキン]]も[[1572年]]に死去し、王の祖母[[マーガレット・ダグラス]]の従弟に当たる[[モートン伯爵]][[ジェイムズ・ダグラス (第4代モートン伯)|ジェイムズ・ダグラス]]が最後に摂政となった{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=237-239}}{{sfn|石井美樹子|2009|p=360}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=41-42}}。
[[1586年]]、ジェームズ6世はイングランドと{{仮リンク|ベリック条約 (1586年)|label=ベリック条約|en|Treaty_of_Berwick_(1586)}}を結ぶ。極秘書類の記録ではあるが、エリザベス1世は自分を挑発しなければジェームズ6世のイングランド王位継承権を認めることを約束、年金も支給した。翌1587年に母がイングランドで処刑されるが、ジェームズ6世はイングランドには形式的な抗議だけで済ませ処刑を黙認、[[1588年]]にエリザベス1世に忠誠を誓った(後継者として有力でもあったため)。一方でイングランドと対立していた[[スペイン]]にも接触、両国どちらが勝っても都合が良いように外交に気を配った(結果的に[[アルマダの海戦]]でイングランドが勝利)。またエリザベス1世の寵臣・[[エセックス伯]][[ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)|ロバート・デヴァルー]]にも接触している{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|森護|1988|p=300}}{{sfn|石井美樹子|2009|p=444-445,491,549}}。
 
[[1589年]]、カトリック教徒の[[ハントリー侯爵|ハントリー伯爵]]{{仮リンク|ジョージ・ゴードン (初代ハントリー侯爵)|label=ジョージ・ゴードン|en|George Gordon, 1st Marquess of Huntly}}にスペインと密約を交わした容疑が上がったが、寛大な処置で済ませた{{sfn|小林麻衣子|2014|p=230,233,263}}。同年、[[デンマーク=ノルウェー]]の王[[フレゼリク2世 (デンマーク王)|フレゼリク2世]](フレデリク2世)の娘[[アン・オブ・デンマーク|アンナ]](アン)と結婚した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}。フレデリク2世は[[ティコ・ブラーエ]]を支援した国王で、当時は亡くなっていたが、ジェームズ6世はデンマークでブラーエと会っている<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Tycho_Brahe|title=Tycho Brahe|accessdate=2020.5.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。翌[[1590年]]、国王の乗船が嵐に巻き込まれて沈没寸前になる出来事が起きたが、これに関して国王に反対する勢力が雇った[[黒魔術]]師による国王暗殺計画があったとして、70名の女性が逮捕される[[魔女狩り]]騒動が起きている{{enlink|North Berwick witch trials|s=off}}。国王自ら参加し、後に自身の著書『悪魔学([[デモノロジー]])』の冒頭にこの事件を記述している。この裁判は、デンマークで行われていたものをジェームズ6世が初めてスコットランドに持って来て行った裁判で、魔女に「国王はサタンが相手する世界最大の強敵」「かの人は神の人」と証言させることで、国王の神性を高めるための目的もあったという{{#tag:ref|この魔女狩りには政治性が付きまとい、ジェームズ6世は母方の従兄に当たる第5代ボスウェル伯{{仮リンク|フランシス・ステュアート (第5代ボスウェル伯爵)|en|Francis Stewart, 5th Earl of Bothwell|label=フランシス・ステュアート}}を魔女集会を開いて国王暗殺を謀った容疑で追及、ボスウェル伯を亡命に追いやった。そのため裁判は政敵排除を狙った国王謀略説があり、以後の魔女裁判にジェームズ6世があまり関わらなくなった点からも、国王の裁判の関心は魔女より政敵にあった疑いが有力視されている。また[[1591年]]にボスウェル伯が[[ホリールード宮殿]]へ侵入する事件が起こり、[[1592年]]にジェームズ6世の命令でハントリー伯がボスウェル伯の共犯として第2代マリ伯{{仮リンク|ジェームズ・ステュアート (第2代マリ伯爵)|en|James Stewart, 2nd Earl of Moray|label=ジェームズ・ステュアート}}を殺害している。ちなみにハントリー伯はジェームズ6世の計らいでほとぼりが冷めるまで匿われ、解放後は侯爵に昇叙された。一方、ボスウェル伯はジェームズ6世がイングランドへ移ると、亡命先のイタリアからスコットランドへ帰国している{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=247-254}}{{sfn|度会好一|1999|p=180,251-253}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=221,262}}。|group=注釈}}{{sfn|度会好一|1999|p=175-179}}。また『悪魔学』を通して、この裁判から[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]が影響を受けて『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』が書かれたともいわれる<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Macbeth|title=https://en.wikipedia.org/wiki/Macbeth|accessdate=2020.5.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。
 
ジェームズ6世はみずから『自由なる君主国の真の法』(1598年)という論文を書いて王権神授説を唱えた。ここでいう「自由なる君主国」とは、王は議会からの何の助言や承認も必要なく、自由に法律や勅令を制定することができるという意味である{{#tag:ref|ジェームズ1世は、[[1609年]]の[[イギリスの議会|イングランド議会]]でも「王が神とよばれるのは正しい。そのわけは、王が地上において神の権力にも似た権力をふるっているからである。……王はすべての臣民のあらゆる場合の裁き手であり、しかも神以外のなにものにも責任を負わない」と演説している{{sfn|大野真弓|1975|p=118-119}}。|group=注釈}}。さらに[[1599年]]には『{{仮リンク|バシリコン・ドーロン|en|Basilikon_Doron}}(古代ギリシア語で「王からの贈り物」の意味)』を著述し、国王から長男[[ヘンリー・フレデリック・ステュアート|ヘンリー・フレデリック]]に向けた手紙という形式で君主論を論じている。国王は政治の主題とするテーマに精通しているべきや、世界史・数学・軍事についての教養の必要性、スピーチは分かりやすい表現でなど、良き君主になるための自身の経験や教訓によって書かれている{{sfn|小林麻衣子|2014|p=4,16,48-49,183-198}}。この本はその後、ヘンリー・フレデリックの弟で次男チャールズ(後の[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]])にも読ませている<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Basilikon_Doron|title=Basilikon Doron|accessdate=2020.5.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。
[[ファイル:James I, VI by John de Critz, c.1606..png|thumb|317x317px|[[1606年]]頃のジェームズ]]
[[File:KingJamesLetter.jpg|thumb|イングランド王ジェームズ1世から[[徳川家康]]への手紙(1613年)]]
1603年3月に入るとエリザベス1世が重体となり、セシルは女王崩御に備え、[[3月19日]]にジェームズ6世に彼がイングランド王に即位する旨の布告の原案を送り届けて、王位継承準備を整えた(エリザベス1世がジェームズ6世への王位継承を認めていたかどうかは不明)。5日後の3月24日にエリザベス1世は崩御し、ジェームズ6世は4月に[[エディンバラ]]を出発、[[ロンドン]]で熱狂的な歓迎を受け[[7月25日]]に戴冠、[[同君連合]]でイングランド王ジェームズ1世となった。平穏な王位継承を迎えるための政治工作に尽力したセシルには翌[[1604年]]に[[ソールズベリー伯爵]]を叙爵、[[1608年]]に{{仮リンク|大蔵卿 (イギリス)|label=大蔵卿|en|Lord High Treasurer}}に任命して報い、ソールズベリー伯の従兄の[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]も[[ナイト]]叙爵と特命の学識顧問官任命で助言者に迎え入れた{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=114}}{{sfn|森護|1988|p=302-303}}{{sfn|塚田富治|1996|p=91-92}}{{sfn|青木道彦|2000|p=241-242}}{{sfn|塚田富治|2001|p=35-37}}。
 
これがイングランドにおけるステュアート朝の幕開けとなり、以後イングランドとスコットランドは、[[1707年]]に[[合同法 (1707年)|合同]]して[[グレートブリテン王国]]となるまで、共通の王と異なる政府・議会を持つ同君連合体制をとることとなる。イギリス史ではこれを[[王冠連合]]と呼ぶ。イングランドの宮廷生活に満足したジェームズ1世は、その後スコットランドには1度しか帰ることがなかった{{#tag:ref|同君連合という都合上紋章を改訂する必要に迫られ、4分割した紋章の盾の左上の位置は優位の位置であり、イングランド・スコットランドどちらの紋章を置くかが問題になった。解決策として新たに2種類の紋章を改訂、イングランドではイングランドの紋章を左上に置いた紋章を、スコットランドではスコットランドの紋章を左上に置いた紋章を使い分けることにした。この伝統は現在も王室に引き継がれている{{sfn|森護|1988|p=303-307}}。|group=注釈}}。
==== 連合統一政策 ====
[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|200px|thumb|{{FIAV|historical|}}ユニオン・フラッグ(1606年版)]][[ファイル:James_I_of_England_by_Daniel_Mytens.jpg|thumb|289x289px|[[1621年]]頃のジェームズ]]
1604年3月から[[1607年]]12月まで断続的に開かれた、3会期に渡る議会でジェームズ1世はイングランドとスコットランドの統一の必要性を訴え、国王側近で両国の統合検討委員会に入っていたベーコンも合同に賛成した。しかし庶民院議員は大勢がスコットランドの蔑視からスコットランド人のイングランド流入と両国の交易に抵抗して合同に反対、[[コモン・ロー]]法律家もイングランド法とスコットランド法融合によるコモン・ローの変質を恐れて反対、ベーコンの反論も効果なく合同は棚上げになってしまった。ただ、ベーコンの活動に注目した国王は1607年6月に彼を{{仮リンク|法務次官 (イギリス)|label=法務次官|en|Solicitor General for England and Wales}}に任命している{{sfn|塚田富治|1996|p=121-124}}{{sfn|木村俊道|2003|145-148,155-158}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=7}}。
 
一方でジェームズ1世は、統一に向けて自分が影響を与えられることは行った。第一に1604年[[10月20日]]の布告で「グレートブリテン王」(King of Great Britain)と自称し{{sfn|木村俊道|2003|p=143}}、第二に新しい硬貨「ユナイト」(the Unite)を発行してイングランドとスコットランドの両国に通用させた。最も重要なことは、イングランドの[[イングランドの国旗|セント・ジョージ・クロス]]とスコットランドの[[スコットランドの国旗|セント・アンドリュー・クロス]]を重ね合せた[[イギリスの国旗|ユニオン・フラッグ]]を1606年4月12日に制定したことである。新しい旗の意匠は他にも5種類ほど提案されたが、他の案は重ね合せではなく組合わせたものであったり、イングランド旗部分が大きいものであったりしたため、ジェームズ1世は「統一を象徴しない」として却下した。
 
また、イングランド国王就任時から[[アイルランド王国|アイルランド]]は[[植民地]]となっており、先代からの反乱({{仮リンク|アイルランド九年戦争|en|Nine Years' War (Ireland)}})の首謀者・ティロン伯[[ヒュー・オニール (第2代ティロン伯)|ヒュー・オニール]]はイングランドに降伏していた(1607年に逃亡)。それを踏まえてジェームズ1世は1608年から[[1610年]]まで、アイルランド北部[[アルスター]]地方へ[[ジェントリ]]を通じてイングランド人・スコットランド人の入植を行った。[[ロンドンデリー]]はそうした入植で出来た植民地都市である。植民地アイルランドの統一政策も行い、入植でカトリックの先住民から土地を奪いプロテスタントの入植者へ入れ替え、カトリックを公職に就かせず、カトリックの有力貴族の家系で幼少の[[ジェームズ・バトラー (初代オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]](後の[[オーモンド伯爵 (アイルランド)|オーモンド公]])を引き取りプロテスタントに養育、[[1613年]]の[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]庶民院の選挙介入も行い、プロテスタント議員がカトリック議員より人数を上回るようにした。特にベーコンは植民政策に対しての著作を残している(『随筆集』第33編「植民について」より){{sfn|ベンジャミン・ファリントン|松川七郎|中村恒矩|1968|p=63-64}}{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=127}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=771,773}}{{sfn|山本正|2002|p=127-129,137,147}}{{sfn|成田成寿|2014|p=208-213}}。
1606年には、[[北アメリカ]]海岸に植民地を建設する目的で、[[ジョイント・ストック・カンパニー]]の[[バージニア会社]]に[[勅許会社|勅許]]を与え、本国のバージニア委員会を通じて経営を行った。[[ジェームズタウン (バージニア州)|ジェームズタウン]]の建設を進め、ロンドンからの移住者が中心になりイングランド人の植民地建設が進んだ。[[1620年]]のピューリタン([[ピルグリム・ファーザーズ]])による[[メイフラワー号]]も有名である{{sfn|今井宏|1990|p=130-131}}。
 
エリザベス1世時代に敵対していたスペインとはソールズベリー伯の主導で1604年の{{仮リンク|ロンドン条約 (1604年)|label=ロンドン条約|en|Treaty of London (1604)}}で和解した。これには、スペインとフランスの調停者としての役割がジェームズ1世に期待されたからで、国王も期待に応え調停者であることをアピールした{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|岩井淳|2015|p=27-28}}。だが、その一方で私掠船を禁止したり、「反スペイン」で関係を強めていた[[オスマン帝国]]に対しては[[キリスト教徒]]としての観点から敵意を抱いて断交を決め、重臣や東方貿易に従事する商人たちからの猛反対を受けた。最終的にジェームス1世が妥協して、従来国家が負担していた大使館などの経費を全て商人たちに負担させることを条件に、オスマン帝国との国交は維持することになった(この時期の貿易は、[[イタリア]][[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]商人を通じて、オスマン帝国、さらに東南アジアとのスパイス貿易がメインだった{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=118}}{{sfn|竹田いさみ|2011|p=115}}。
 
ただ、東方貿易と同じ東南アジアに向かう東インド航路の開拓を進めた(1600年、エリザベス1世時代に[[イギリス東インド会社|東インド会社]]が設立されたが、当時はスペインと和平交渉は成立していなかった){{sfn|竹田いさみ|2011|p=113}}。1613年には[[ジャワ島]]のバンテンに商館を持っていて、[[日本]]にいる[[ウィリアム・アダムス|三浦按針]]から手紙を貰い、東インド会社第二船団に乗っていた[[ジョン・セーリス]]が日本に行き、[[徳川家康]]・[[徳川秀忠|秀忠]]親子と交渉して、[[平戸市|平戸]]に[[イギリス商館]]を築いている。また、秀忠からは鎧などを贈られ、これは現在もロンドン塔に現存する。ジェームズ1世はこれにより日本に興味を持ち、セーリスの航海記を5回も読むほどだったらしい<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/John_Saris|title=john saris|accessdate=2020.6.3|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>--><ref>{{Cite web|url=http://www.clair.or.jp/j/forum/c_mailmagazine/201302_2/2-4.pdf|title=日英交流400周年|accessdate=2020.6.03|publisher=}}</ref>。日本の工芸品などで初のイングランド国内オークションなどが行われるが、日本は基本的に東南アジアのスパイス貿易のサブ(東南アジアのスペイン・ポルトガル船襲撃や布製品の売り付けなど){{sfn|大江一道|1988|p=181-182}}だったため、[[1623年]]の[[アンボイナ事件]]以後、オランダとの関係悪化で東南アジアからインド貿易にシフトしていく(日本のイギリス商館も1623年に廃止された){{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=119}}{{sfn|小林幸雄|2007|p=135-136}}。
インド周辺のコーヒー貿易は、1606年末の東インド会社第三船団の際には計画されているが、貿易拠点作りのための商館建設交渉は長引き、[[1619年]]に東インド会社の巧みな外交によって[[モカ]]港の入港の許可に成功している。これによりコーヒーの大量買い付けが可能になっている{{sfn|竹田いさみ|2011|p=151-155}}。
 
スペインとの和睦に関係して、海軍の弱体化を招いたことは威信の失墜に繋がり、平和主義に則りスペインを苦しめた私掠船の禁止と、財政難のため海軍費用を削減して艦隊整備を怠り、水兵のリストラなど軍縮を行う一方、王立艦隊をイングランド周辺海域の警戒に当たらせた。しかし衰微した海軍では任務が失敗することが多く、[[イギリス海峡]]を渡る外国船は旗を降ろさず、外国船が海域に侵入し船を襲うこともあった。[[北アフリカ]]から[[バルバリア海賊]]も侵入、船の略奪・誘拐が続いても海軍は手も足も出ず、[[1620年]]から1621年にかけて敢行された[[アルジェ]]遠征も失敗、ジェームズ1世の理想主義的平和政策が海上で失敗したことが明らかになった。歴史家[[ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン]]はジェームズ1世が海軍を無視したことを厳しく批判している{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=118-119}}{{sfn|小林幸雄|2007|p=129-134}}。
 
1613年、娘エリザベスを[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]][[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]と政略結婚させた。イングランドと[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ共和国]]・プファルツを結ぶプロテスタントの連携を目指したもので、「[[テムズ川]]と[[ライン川]]の合流」とまで言われる{{sfn|宮本絢子|1999|p=61}}。平和主義者のジェームズ1世はカトリックとプロテスタントの対立を和解させる調停者の立場を目指し、エリザベスの結婚と合わせて次男チャールズとスペイン王女との結婚も画策していた。また財政難で軍を集められないという事情もあり(議会の同意が簡単に得られないため戦費を調達し辛い)、1616年頃からスペインとの調停を行い、後に[[三十年戦争]]でフリードリヒ5世が危機に陥っても援助しなかった{{#tag:ref|エリザベスとフリードリヒ5世の結婚はジェームズ1世の目論見とは違い、ドイツの[[プロテスタント同盟]]にイングランドの後ろ盾を得たと思い込ませ、三十年戦争へ突入する皮肉な展開になった。フリードリヒ5世は舅の援助を当てにして戦争に参戦したが、ジェームズ1世には前述の通り援助が難しいため、援助を受けられず戦争に敗れて亡命する羽目になった{{sfn|今井宏|1990|p=160}}。|group=注釈}}{{sfn|今井宏|1990|p=159-160}}{{sfn|岩井淳|2015|p=28-30}}。
ジェームス1世は、スコットランド王としてもイングランド王としても弱体な権力基盤の上に君臨していたため、自己の味方を増やそうと有力貴族たちに気前良く恩賜を授け、多額な金品を支出した。さらに王妃アンの浪費(後述)によって国家財政は逼迫してしまうことになった。このため、国王大権をもって議会に諮らずに、[[関税]]を大商人たちに請け負わせる契約(「大請負」)を締結して、議会との対立を深めた。1610年にソールズベリー伯が財政再建策として[[大契約]]を議会に提出、議会は1度は同意したが、議会側は国王が絶対王政に走るのではないかとの疑いから、廃案となった(2年後の[[1612年]]にソールズベリー伯は死去){{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|今井宏|1990|p=153-155}}{{sfn|塚田富治|2001|p=38-44}}{{sfn|木村俊道|2003|p=187-188}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=8-9}}{{sfn|酒井重喜|1989|p=41-63}}。
 
危機的な王庫の困窮を少しでも緩和するため、1611年にはアイルランド北部アルスター地方の植民者を守り、アイルランド人の反乱に備える軍隊の費用を捻出するため、購入が可能な新位階としてイングランド[[準男爵]]位を創設した。[[1619年]]にはアイルランドでも販売を開始した(ジェームズ1世の崩御後にはスコットランドでも準男爵の販売が開始される){{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=57}}。
 
==== 派閥抗争と議会との抗争 ====
[[1614年]]からは国王の統一政策への反対の声が強くなったり、財政の逼迫にもかかわらず議会から十分な課税ができないことなど、議会を自らの首を絞める存在として強く意識するようになり、議会を7年ほど開催しなくなる。これには宮廷内部の対立も尾を引き、ソールズベリー伯亡き後にノーサンプトン伯ら親スペイン・カトリック派の[[ハワード家]]と反スペイン・プロテスタント派の[[ペンブルック伯]][[ウィリアム・ハーバート (第3代ペンブルック伯爵)|ウィリアム・ハーバート]]、[[カンタベリー大主教]]{{仮リンク|ジョージ・アボット (カンタベリー大主教)|label=ジョージ・アボット|en|George Abbot (bishop)}}らが対立、1614年の議会はノーサンプトン伯がペンブルック伯らが呼びかけた財政改革に応じないばかりか、政府が議会を抱き込もうするという噂を流したため、議会は派閥抗争で荒れた末に解散に追い込まれた{{sfn|今井宏|1990|p=158-159}}{{sfn|塚田富治|1996|p=148-149}}{{sfn|木村俊道|2003|227-228}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=9}}。
 
派閥抗争は議会解散後も続き、ペンブルック伯・アボット・{{仮リンク|国王秘書長官 (イングランド)|label=国王秘書長官|en|Secretary of State (England)}}{{仮リンク|ラルフ・ウィンウッド|en|Ralph Winwood}}らプロテスタント派はノーサンプトン伯と甥の[[サフォーク伯]][[トマス・ハワード (初代サフォーク伯)|トマス・ハワード]]と[[サマセット公|サマセット伯]][[ロバート・カー (初代サマセット伯)|ロバート・カー]]らカトリック派から国王を引き離すため、[[ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)|ジョージ・ヴィリアーズ]](後の[[バッキンガム公]])を国王に近付けさせた。国王から寵愛されたヴィリアーズは期待に応え1618年にサフォーク伯を失脚させ、サマセット伯も[[1615年]]に政略結婚に絡んだ殺人でベーコンに告発され失脚、プロテスタント派の勝利でヴィリアーズが台頭(1616年にバッキンガム子爵、1617年に伯爵、1618年に侯爵、1623年に公爵に叙爵){{sfn|塚田富治|1996|p=188}}、{{仮リンク|ミドルセックス伯爵|en|Earl of Middlesex}}{{仮リンク|ライオネル・クランフィールド (初代ミドルセックス伯爵)|label=ライオネル・クランフィールド|en|Lionel Cranfield, 1st Earl of Middlesex}}が財政改革に乗り出したが、赤字を解消出来ず1621年に議会召集せざるを得なかった{{sfn|今井宏|1990|p=162-163}}{{sfn|塚田富治|2001|p=116-117}}{{sfn|木村俊道|2003|231-235}}。
 
時期は前後して、司法でコモン・ロー法律家で裁判官[[エドワード・コーク]]とも対立する。コモン・ロー信奉者のコークは1606年に{{仮リンク|民事高等裁判所首席裁判官|en|Chief Justice of the Common Pleas}}に就任してからコモン・ローを扱う裁判所を擁護、[[エクイティ]]の裁判所や王権と権限や管轄争いを引き起こした。ジェームズ1世はベーコンと共に国王大権を擁護して対抗しつつもコークとの和解の道を探り、1613年に彼を{{仮リンク|イングランド・ウェールズ首席裁判官|label=王座裁判所首席裁判官|en|Lord Chief Justice of England and Wales}}へ転任させたが、コークが一向に翻意せずコモン・ロー裁判所を拠点にして国王大権と対立し続けたため、1616年にコークを罷免した。一方、コークとの争いで一貫して国王を理論で擁護したベーコンを[[法務長官 (イギリス)|法務長官]](1613年)、枢密顧問官、[[国璽尚書]](1617年)、[[大法官]](1618年)に昇進させ、同年に[[ヴェルラム男爵]]、1621年にはセント・オールバンズ子爵に叙した{{sfn|今井宏|1990|p=158}}{{sfn|塚田富治|1996|p=131-137,149-158,168-169,186-187}}{{sfn|木村俊道|2003|193-198}}{{sfn|石井栄一|2016|p=62-68}}。
議会は初め14万5000ポンドの特別税徴収を認めたが、ジェームズ1世が提案したプファルツへの援軍派遣による追加予算を認めなかった。独占権の濫用による商業の専売が問題になりバッキンガム侯が独占権関与で議会から追及される恐れが出ると、ジェームズ1世は事態収拾に動き一部の業者から独占権を取り上げ、バッキンガム侯の非難をかわすため議会によるベーコンの収賄容疑の弾劾を受け入れ、彼をスケープゴートにして失脚へ追い込んだ。その後外交問題が議題に上ると、外交が国王大権のためスペインとの戦争を主張する議会に激怒して反対、[[議会の大抗議]]を発表して言論の自由を盾に尚も食い下がる議会に更に腹を立て、議会を解散して大抗議の首謀者であるコーク、[[ジョン・ピム]]らを投獄した(ピムは自宅軟禁で済んだとも){{sfn|浜林正夫|1959|p=72}}{{sfn|今井宏|1990|p=163-165}}{{sfn|塚田富治|1996|p=188-197}}{{sfn|塚田富治|2001|p=65-66,116-117}}{{sfn|石井栄一|2016|p=71-78}}。
 
[[1622年]]には[[ホワイトホール宮殿]]の拡張を実施し、[[イニゴ・ジョーンズ]]の設計による[[バンケティング・ハウス]]を完成させた。
 
==== 晩年 ====
先代のエリザベス1世は倹約家であったことに加えて、本人以外に「王族」を持たなかったために宮廷経費が最低限であったのに対して、ジェームズ1世には既に王妃アンの他に7人の子供たちがおり、宮廷経費の増大は避けられなかった{{sfn|森護|1986|p=392-393}}。
 
特に王妃アンは、金髪が美しい美女であったが、お祭り好きの浪費家で知られた。その浪費癖は既にスコットランド時代から知られており、元々裕福とは言えないスコットランド王室の財政を脅かすほどだった。それはイングランドに移ってからも変わることなく、パーティに舞踏会、そしてイングランド南西部の[[バース (イギリス)|バース]]への大旅行など、その浪費ぶりは凄まじいものがあった。そのため、[[1619年]]に王妃が他界すると莫大な負債が残され、ジェームズ1世は悩まされることになった。彼女については「空っぽの頭」(Empty Headed)と言う者までいた{{sfn|森護|1986|p=400-401}}。
 
宮廷経費の増大は国家財政をさらに逼迫させて、[[清教徒革命]]([[イングランド内戦]])に至る国王と議会の対立の最大の原因となる。
* 当代随一の知識人フランシス・ベーコンをイングランド王即位直後から目にかけ、ナイト叙爵をきっかけに翌1604年の特命の学識顧問官抜擢、1607年の合同論争で注目して法務次官に任命した。最終的に大法官まで昇進させ、爵位も子爵まで与えた。ベーコンも国王の側近として忠実に働き、しばしば議会との協調を呼びかけ、コークらコモン・ロー法律家と対立して国王大権擁護、法改革など助言と提案を重ね、1620年に著作『[[ノヴム・オルガヌム]]』を国王へ贈り、1621年に子爵に叙された時は国王へ感謝の言葉を述べている。ただし1621年議会でジェームズ1世はバッキンガム公を守るため、庶民院に弾劾されたベーコンをスケープゴートとして見放したため、完全に信頼していたとは言い難い(それでも弾劾されロンドン塔へ監禁されたベーコンを短期間で釈放させ、罰金も分割払いで済ませるなど失脚後のベーコンに便宜を図っている){{sfn|木村俊道|2003|p=254-255}}{{sfn|大野真弓|1975|p=122}}{{sfn|今井宏|1990|p=166}}{{sfn|塚田富治|1996|p=92-93,147-148,159-166,185-187}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=48-49}}{{sfn|石井栄一|2016|p=78,81}}。
* 1611年に[[オックスフォード大学]]{{仮リンク|セント・ジョンズ・カレッジ (オックスフォード大学)|en|St John's College, Oxford|label=セント・ジョンズ・カレッジ}}学寮長の選挙が行われた際、{{仮リンク|オックスフォード大学学長|en|List of Chancellors of the University of Oxford|label=学長}}のエレズミア男爵[[トマス・エジャートン (初代ブラックリー子爵)|トマス・エジャートン]]から候補者の[[ウィリアム・ロード]]をカルヴァン派が訴えているという話を伝えられたが、選挙実施を承認した結果ロードが当選した。それからは大学改革に邁進するロードを後押ししたり、猟官運動に励む彼を引き立て出世させたりしたが、内心はロードの急進的思想([[高教会派]])を懸念していたという。ロードはジェームズ1世からはあまり信頼されなかったがバッキンガム公の後援を得て、次の王チャールズ1世の下で更に出世することになる{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=410}}{{sfn|塚田富治|2001|p=88-92}}。
* ヴェネツィア大使が本国の総督へ送った手紙でジェームズ1世の性格と対外観が書かれ、即位直後の1603年6月に送った報告でジェームズ1世がカトリックとプロテスタントの調停者を目指してカトリック諸国、特にスペインへの接近を計画していることを記した。一方で財政難であることも見抜かれ、1621年4月のヴェネツィア大使から総督への報告でジェームズ1世が軍資金が無いことを認めたことが書かれている。またジェームズ1世はベーコンが失脚した収賄が習慣と化していることを大使に話し、政府高官が収賄の習慣無しには生きていけない現状を語っている{{sfn|塚田富治|2001|p=194}}{{sfn|岩井淳|2015|p=34-35,39}}。
* 1601年[[4月15日]]にスコーン・ロッジの[[フリーメイソン]]に加入している<ref name="Grand Lodge">{{Cite web |url= http://freemasonry.bcy.ca/biography/james_vi/james_vi.html |title= James VI of Scotland |accessdate= 2014-9-25 |work= [http://freemasonry.bcy.ca/grandlodge.html Grand Lodge of British Columbia and Yukon] |language= 英語 }}</ref>。
* 1613年にジョン・セーリスが船長を務める[[クローブ号]]がジェームズ1世からの書簡と贈呈品をもって日本の[[長崎市|長崎]]、ついで平戸に到着した。当時、将軍職を退いて[[駿府城]]にいた徳川家康には[[望遠鏡]](アジアに望遠鏡が伝わるのはこれが初めてだったとも言われる)、[[江戸]]にいる将軍徳川秀忠には金のカップとカバーとイングランド製の布地が贈られた。セーリスには、返礼として秀忠から2組の鎧、家康から金屏風が託された。またセーリスは家康の顧問を務めていた英国人ウィリアム・アダムス(三浦按針)の協力を得て、家康から朱印状(貿易許可証)を得て平戸にイギリス商館を開設している。1613年にクローブ号は帰国の途に就き、金屏風と鎧はジェームズ1世に届けられた。これをきっかけにジェームズ1世はアジアに関心を持ち、セーリスの航海日誌を5回も読んだといわれる<ref>[http://www.clair.or.jp/j/forum/c_mailmagazine/201302_2/2-4.pdf 2013 年は日英交流 400 周年 ~JAPAN400 のご紹介~]</ref>。
* 『自由なる君主国の真の法』(1598年)
* 『{{仮リンク|バシリコン・ドーロン|en|Basilikon_Doron}}』(1599年)
* 『{{仮リンク|タバコへの抗議|en|A Counterblaste to Tobacco}}』(1604年)
 
== 注釈 ==
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