「ウェリントン公爵騎馬像 (旧王立取引所前)」の版間の差分

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1836年、[[ロンドン市長 (シティ・オブ・ロンドン)|ロンドン市長]]ウィリアム・テイラー・コープランド (William Taylor Copeland) は、道路整備におけるウェルズリーの尽力に感謝の意を示すため、像を建てることを提案した。像の制作者としては、リチャード・ウェストマコット (Richard Westmacott) 、ジョン・エドワード・カルー (John Edward Carew) 、トーマス・キャンベル (Thomas Campbell) 、エドワード・ホッジス・ベイリー (Edward Hodges Baily) といった名も挙がったが、有力だったのはマシュー・コーツ・ワイアットとフランシス・レガット・チャントリーの2名であった。この年[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]騎馬像を制作したワイアットも支持を集め、議会は半々に分かれたが、結局チャントリーに決まった。ワイアットは後に別の場所に[[ウェリントン公爵騎馬像 (オールダーショット)|ウェルズリーの像]]を建てることになった。
 
チャントリーによる像制作は進み、1841年8月には[[グラスゴー]]に{{仮リンク|[[ウェリントン公爵騎馬像 (グラスゴー)|label=ウェルズリーの像|en|Equestrian statue of the Duke of Wellington, Glasgow}}]]を建てることになったフランスの彫刻家{{仮リンク|カルロ・マロケッティ|en|Carlo Marochetti}}に対して対抗心を露にし、自作の出来栄えに自信を示していた。しかしこの年の11月、チャントリーは心臓発作で急死した。像は工房で助手をしていたヘンリー・ウィークス (Henry Weekes) が完成させることになった。1843年年頭の時点で像は完成形が分かる程度にまで制作が進んでいたが、設置が予定された王立取引所は1838年1月に火事に遭い再建工事中であり、像の設置は遅れた。
 
像の除幕式は1844年6月18日に行われた。この日は1815年の同じ日、[[ワーテルローの戦い]]、ウェルズリーが連合軍を率いて[[ナポレオン・ボナパルト]]に勝利したことを記念して選ばれた。式にはウェルズリー自身が出席したほか<ref>{{cite book|author=John Timbs|title=Wellingtoniana: anecdotes, maxims, and characteristics, of the duke of Wellington, selected by J. Timbs|year=1852|page=66}}</ref>、[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]に会うためロンドンを訪れていた[[ザクセン王国|ザクセン]]王[[フリードリヒ・アウグスト2世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト2世]]も出席した<ref>{{cite book|first = Effingham |last = Wilson|title = Description of the New Royal Exchange, including an historical notice of the former edifices and a brief memoir of Sir T. Gresham. |year = 1844 |publisher=E. Wilson |pages = 114–116 |chapter = WELLINGTON STATUE.}}</ref>。