「下関戦争」の版間の差分

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→‎兵器・戦術など: 殆ど→ほとんど(表記の統一)
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馬関海峡は海峡の両側とも険しい山になっているが、長州藩の砲台はこの地の利を活かすことなく、15箇所<ref>北東の[[長府]]側から城山、関見、角石、茶屋、洲崎、駕建場、杉谷、壇ノ浦、御裳川、八軒家、亀山、専念寺、永福寺であり、さらに彦島に弟子村、山床の砲台があった。</ref>の砲台は、何れも海岸に近い低地に構築されていた<ref>山のないオランダの戦術書を参考に、砲台を築いたためとも言われている。</ref>。加えて崖の下の砲台も多く、砲弾が崖に命中すると岩の破片が砲台に降り注いでしまうという大きな欠陥があった<ref name=isinsi4 />。また、砲台は正面の敵にのみ対応できるようになっており、複数の砲台が連携しての「十字射撃」はできなかった。他方、連合国艦隊のキューパー提督は、[[薩英戦争]]の教訓を取り入れており、複数の艦からの共同攻撃により、各砲台を個別撃破していった<ref>連合国は事前の偵察により長州藩の砲台を10箇所としていた(砲台位置は地図参照)。</ref>。
 
このように、両軍の間には、兵器の性能の差だけでなく、戦術の差もあった。上陸した陸戦隊に長州藩兵が切り込みをかけるようなケースもほとんど無く、戦後長州藩では「侍は案外役に立たない」との認識が生まれ、奇兵隊他の諸隊が増強されていく。
 
== 脚注 ==