「了法寺 (山口県田布施町)」の版間の差分
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明暦3年(1657年)、周防國大嶋郡久賀村在の寺が引寺され、かつての周防國吉井村、現在の山口県熊毛郡田布施町宿井に建てられた寺院である。引寺、相続前の寺の開基、二世は不祥とされるが、三世は了休、四世は了慶と防長寺社由来に記されている*¹。しかし、了慶を了法寺の開基とする古書もある*⁴。相続により了慶が新たな寺を建立したことに因んで、了慶を開基としたようである*²。了慶の俗姓は、橘家の一門、簾坂又三郎重行である*³。了慶のあと、その子孫が現代まで代を重ねている。十世仁諦の時、明治新政府の発した平民苗字必称義務令により、仁諦は了慶の俗姓である簾坂姓を名乗り、簾坂仁諦と届け出ている。その後、簾坂仁済、簾坂鐵洲、簾坂蘇法、田中法子(旧姓簾坂法子)らが跡を継いでいる。
開基了慶こと簾坂又三郎重行は、寛永6年(1629年)巳11月、京都の龍谷山本願寺十二世門主准如上人のもとへ若くして弟子入りした*³。了慶は、そこで周防國波野村から上京した専福寺の新発意、宗順と知己を得て、修行後、専福寺の修行僧となるべく、周防へ下向した。
その頃を知る近隣住民の家内(いえうち)の話しが周防國風土記のなかに残されている。この古書は、天保(1832年~)の頃、村の明細を
江戸時代における了法寺と専福寺の関係は、了法寺の開基である了慶が、専福寺の修行僧であったこと、また宗慶遷化の前年に了法寺が大嶋郡から専福寺に近い隣村の吉井村へ引寺、相続されたこと、さらには了法寺六世湛水の代に専福寺六世宗碵の娘オウタが湛水のもとへ嫁いでいることなどから、両寺の関係は密なものであり、また縁続きでもあったようである*³。
佛照山了法寺の代々の住職は、開基了慶法師、二世但髄法師、三世了瑞法師、四世知見法師、五世等観法師、六世湛水法師、七世大音法師、八世玄道法師、九世霊瑞法師、十世簾坂仁諦法師、十一世簾坂仁済法師、十二世簾坂鐵洲法師、十三世簾坂蘇法法師であり、現在は十四世田中法子(旧姓簾坂法子)である*²
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