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中国から北上して、[[モンゴル]]や[[カザフスタン]]の草原([[ステップ (植生)|ステップ]]地帯)を通り、[[アラル海]]や[[カスピ海]]の北側から[[黒海]]に至る、最も古いとみなされている交易路。この地に住む[[スキタイ]]や[[匈奴]]、[[突厥]]といった多くの[[遊牧民]]([[騎馬民族]])が、東西の文化交流の役割をも担った。
 
現在の[[中華人民共和国鉄道部|中国国鉄]][[集二線]]は、部分的にほぼこの道に沿っている。
 
モンゴルの[[ツァヒアギーン・エルベグドルジ]]大統領が同名の中露蒙経済回廊を提唱していることでも知られている<ref>{{cite news |title=習近平主席がモンゴル国のエルベグドルジ大統領と会談、両国の全面的な戦略パートナーシップの絶え間な位発展を推進すると強調|url=http://jp.xinhuanet.com/2015-11/11/c_134805643.htm|author=|agency=[[新華社]]|date=2015-11-11|accessdate=2016-05-19}}</ref><ref>{{cite news |title=習近平主席が中露蒙首脳会議に出席|url=http://j.people.com.cn/n/2015/0710/c94474-8918669.html|author=|agency=[[人民日報]]|date=2015-07-10|accessdate=2016-05-19}}</ref>。
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== 宗教の伝播 ==
=== キリスト教 ===
{{Seealso|ネストリウス派#中国における景教}}
[[エフェソス公会議]]で[[異端]]とされた[[キリスト教]]のシルクロード伝播は[[ネストリウス派]]は東方で布教に努め、ペルシアなどで勢力を築いた。中国に広まったものは[[景教]]して知ら呼ばていた。781年に刻まれた[[大秦景教流行中国碑]]は、ネスト部分的にシウス派ア文字やシリア語も使われており、古代の宣教師たちがシルクロードを通って中央アジアや中国まで到着往来ていことを示している。キリスト<ref>{{Cite web|url=http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/z2dfol/yz2p01.html|title=大秦景は東西に広がり、同時に[[シリア語]]をもたらし、崇拝の形態を進化させた流行中国碑拓本|accessdate=2021-04-03|publisher=古代文字資料館|author=景淨|coauthors=呂秀厳}}</ref> <ref>"Belief Systems Along the Silk Road," Asia Society website, {{cite web |url=http://asiasociety.org/education/belief-systems-along-silk-road |title=Belief Systems Along the Silk Road |access-date=17 November 2016 |url-status=live |archive-
url=https://web.archive.org/web/20161117221241/http://asiasociety.org/education/belief-systems-along-silk-road |archive-date=17 November 2016 }}. Retrieved 14 November 2016.</ref>。
 
{{Seealso|ネストリウス派#中国における景教}}
 
=== 仏教 ===
[[File:Buddhist Expansion.svg|thumb|150px|right|[[仏教のシルクロード伝播]]]]
{{Seealso|仏教のシルクロード伝播}}
シルクロードを経由した中国への仏教伝播は、漢王朝の[[明帝 (漢)|明帝]](58-75)が西洋に派遣した大使の記録によると、西暦1世紀ごろであったという。この時期に仏教は、東南アジア、東アジア、中央アジアに広がり始めた<ref>[[:en:Jerry H. Bentley]], ''Old World Encounters: Cross-Cultural Contacts and Exchanges in Pre-Modern Times'' (New York: Oxford University Press, 1993), 69, 73.</ref>。上座部、大乗、チベット仏教は、シルクロードを経由してアジア中に広がった仏教の3つの主要な宗派である<ref>{{cite journal |last=Anderson |first=James A. |date=2009 |title=China's Southwestern Silk Road in World History |url=http://worldhistoryconnected.press.illinois.edu/6.1/anderson.html |journal=World History Connected |volume=6 |issue=1 |access-date=2 December 2013 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140209152743/http://worldhistoryconnected.press.illinois.edu/6.1/anderson.html |archivedate=9 February 2014 |df= }}</ref>。
 
4世紀以降は、中国の巡礼者がインドにオリジナルの仏典を求めてシルクロードを旅した。中国からインドへ[[法顕]](395-414)、[[玄奘三蔵]](629-644)が渡り、韓国からインドへは[[慧超]]が渡った<ref>{{cite web|url=http://www.silk-road.com/artl/srtravelmain.shtml|title=Ancient Silk Road Travellers|author1=Silkroad Foundation|author2=Adela C.Y. Lee|publisher=|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090806070134/http://www.silk-road.com/artl/srtravelmain.shtml|archivedate=6 August 2009|accessdate=2009-10}}</ref>。玄奘三蔵の旅は[[大唐西域記]]として記され、後にこれを元に16世紀にフィクション作品[[西遊記]]が生まれた。
 
== シルクロードと日本 ==
日本には、奈良の[[正倉院]]に中国製やペルシア製の宝物が数多くあり、[[天平|天平時代]]に[[遣唐使]]に随行して[[ペルシア人]]の[[李密翳]]<ref>[[松本清張]]の[[歴史小説]]『[[眩人]]』でも知られる人物。</ref>(り・みつえい)が日本に来朝したことに関する記録<ref>『[[続日本紀]]』巻第十二 聖武天皇 天平八年([[736年]])</ref>なども残されている。当時の日本は唐代の東西交通路の東端に連なっていたと認識されており、[[摂津国]]の[[住吉津]](現在の[[大阪市]][[住吉区]])と、[[御食国]]である[[若狭湾]](京都府から福井県の南){{要出典範囲|は「シルクロードの日本の玄関」、[[飛鳥京]]や[[平城京]]は「シルクロードの東の終着点」と呼ぶことがある。|date=2021年4月}}
 
シルクロードに関しては近年の日本における学校教育でも取り上げられていたが、歴史やヘディンの著書などに関心を持つ一部の人たち以外には、さほど興味を引く存在ではなかった。しかし、中華人民共和国との文化交流が進む過程で[[日本放送協会|NHK]]が[[中国中央電視台]]とともに[[1980年]]に共同制作した『[[NHK特集 シルクロード|NHK特集 シルクロード-絲綢之路-]]』によって、[[喜多郎]]のノスタルジックなテーマ音楽とともに、一躍シルクロードの名が広く知れ渡ることとなった。日本ではシルクロードという語は独特の[[エキゾチシズム]]や[[ノスタルジア]]と結びついており、西安や新疆、[[ウズベキスタン]]、[[イラン]]、[[トルコ]]などへの[[海外旅行]]情報や[[ツアー]]の広告には必ずと言ってよいほど「シルクロード」という言葉が記されている。この80年代の「シルクロードブーム」を受け<ref>王坤「中国側から見る日中経済協力 : 1979~1988年の『人民日報』の対中ODA 報道を中心に」OUFCブックレット 3, 313頁, 2014-03-10</ref>、[[1988年]]に日中両政府は[[日中友好環境保護センター]]の設立を決定した。また、[[平山郁夫]]はシルクロードの世界遺産登録をユネスコに中国政府とともに働きかけて[[平山郁夫シルクロード美術館]]も設立した<ref>日本ユネスコ協会連盟 『世界遺産年報2015』pp. 18 講談社、2014年</ref><ref>日本ユネスコ協会連盟 『世界遺産年報2005』p. 40 平凡社、2005年</ref>。
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{{main|[[トランス=ユーラシア・ロジスティクス]]}}
一帯一路の中核事業として位置付けられた[[東アジア]]から[[中国]]、[[モンゴル]]、[[カザフスタン]]を経由し[[ロシア]]、[[東欧]]、[[欧州]]などへ[[貨物列車]]を使用した物流網が開通しており、現代のシルクロードから「鉄のラクダ」とも称される。
 
== 関連項目 ==
{{commons&cat|絲綢之路|Silk Road}}
* [[カルラエの戦い]]([[紀元前53年]])
* [[桓帝 (漢)|桓帝]]([[166年]]) - [[ローマ帝国]]皇帝[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス|マルクス・アウレリウス]]からの使節が[[後漢]]に送られた。
* [[タラス河畔の戦い]]([[751年]]) - [[紙]]の製法がイスラム圏に伝わり、[[1144年]]に[[ヨーロッパ]]で初めての[[製紙]]工場が[[ムワッヒド朝]]支配下の[[アンダルス|イベリア半島]]の[[シャティヴァ]]に作られた。
* [[陶磁器]]、[[紙]]、[[仏教]]:シルクロード経由して伝来したもの。
* [[正倉院]]:シルクロードの終着点とも言われる<ref>{{Cite web|url=https://shosoin.kunaicho.go.jp/about/treasure/|title=宝物について|accessdate=2021-04-03|publisher=宮内庁|website=正倉院|quote=「正倉院はシルクロードの終着点である」という言葉は,この宝物のもつ世界性の一端を言いあらわしたものといえるでしょう。正倉院宝物は,単に奈良朝文化の精華を示すだけでなく,実に8世紀の世界文化を代表する貴重な古文化財なのです。}}</ref>
* [[アジア横断鉄道#経路ii|シルクロード鉄道]]
* [[大東亜縦貫鉄道#中央アジア横断鉄道|中央アジア横断鉄道]]
* [[一帯一路]]
* [[中国の夢]]
* [[コンスタンティノープルの陥落]] - オスマン帝国が1453年に東ローマ帝国の首都でありシルクロードの要であったコンスタンティノープルを攻略し、攻略後に交易品の制限をしたことから、ヨーロッパでは別のルートを探すための[[大航海時代]]が始まった。
 
== シルクロードを題材とした作品 ==
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプReflist}}
<references />
 
== 参考文献 ==
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* 三杉隆敏 『海のシルクロードを調べる事典』 芙蓉書房出版、2006年
* エドワード・H. シェーファー 『[[サマルカンド]]の金の桃 唐代の異国文物の研究』 [[伊原弘]]・日本語版監修、吉田真弓訳、アシアーナ叢書2:[[勉誠出版]]、2007年
 
== 関連項目 ==
{{commons&cat|絲綢之路|Silk Road}}
* [[カルラエの戦い]]([[紀元前53年]])
* [[桓帝 (漢)|桓帝]]([[166年]]) - [[ローマ帝国]]皇帝[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス|マルクス・アウレリウス]]からの使節が[[後漢]]に送られた。
* [[タラス河畔の戦い]]([[751年]]) - [[紙]]の製法がイスラム圏に伝わり、[[1144年]]に[[ヨーロッパ]]で初めての[[製紙]]工場が[[ムワッヒド朝]]支配下の[[アンダルス|イベリア半島]]の[[シャティヴァ]]に作られた。
* [[陶磁器]]、[[紙]]、[[仏教]]:シルクロード経由して伝来したもの。
* [[正倉院]]
* [[アジア横断鉄道#経路ii|シルクロード鉄道]]
* [[大東亜縦貫鉄道#中央アジア横断鉄道|中央アジア横断鉄道]]
* [[一帯一路]]
* [[中国の夢]]
* [[コンスタンティノープルの陥落]] - オスマン帝国が1453年に東ローマ帝国の首都でありシルクロードの要であったコンスタンティノープルを攻略し、攻略後に交易品の制限をしたことから、ヨーロッパでは別のルートを探すための[[大航海時代]]が始まった。
 
{{交易路}}