「街亭の戦い」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: 手動差し戻し
20行目:
 
'''街亭の戦い'''(がいていのたたかい)は、[[中国]]の[[三国時代 (中国)|三国時代]]における、[[魏 (三国)|魏]]と[[蜀]]による街亭(現在の[[甘粛省]][[天水市]][[秦安県]])での戦い。[[228年]]、[[張郃]]が指揮を執る魏軍が、[[馬謖]]が指揮を執る蜀軍を破った。この戦いで破れた蜀軍は全軍撤退を余儀なくされ、第1次[[北伐 (諸葛亮)|北伐]]は失敗に終わった。なお街亭の所在に関しては、現在の甘粛省天水市秦安県隴城鎮にあたるとするのが通説であるが、柿沼陽平は、①街亭の馬謖軍が敗れたとき、諸葛亮の本陣は街亭から「數里」の距離にいたとされること(『袁子正論』)、②諸葛亮の本陣は祁山にあったこと、③祁山から上邽郡まで二四〇里あり(『水経注』)、秦安県隴城鎮は上邽郡のさらに東北にあり、よって祁山と秦安県隴城鎮では数百里の距離があること、④街亭の戦い時点で、曹魏側の上邽郡城は陥落しておらず、そこを飛び越えて蜀漢軍がさらに北側に位置する秦安県隴城鎮には攻め込みようがないこと、⑤街亭=秦安県隴城鎮とする通説の典拠はどれも魏晋時代より後世の史料であって、信憑性を欠くことをふまえ、街亭の戦いは祁山付近で行われた可能性が高いとする<ref>柿沼陽平『劉備と諸葛亮 カネ勘定の『三国志』』(文藝春秋、2018年5月)</ref>。
 
==隴西と異民族==
[[215年]]に[[曹操]]が[[張魯]]を降すと、その麾下に在った[[巴西]]の[[板楯蛮]]は[[張郃]]の指揮下に入り、街亭近郊の略陽の地に入植した。板楯蛮の出身である[[王平]]も居たが、後に漢中争奪戦の際に劉備に投降している。諸葛亮が北伐で隴西を狙ったのは、彼等の寝返りを期待しての物であった。
 
==戦いの経過==
[[225年]]、[[南蛮]]を平定し後顧の憂いを除いた[[諸葛亮]]は、いよいよ先主[[劉備]]の悲願であった漢室再興の計画に取りかかった。[[227年]]、北伐の準備を整えた諸葛亮は、諸軍の総指揮を執り[[漢中郡|漢中]]に駐屯し、後主[[劉禅]]に「[[出師の表]]」を奉って敵国魏の打倒を誓った。
 
『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[魏延]]伝によると、蜀将の魏延は、自分が兵1万を指揮し、かつての[[韓信]]のように、諸葛亮の本隊と別の道を通り、[[潼関]]で落ち合うという作戦を提案した。<refbr>250年代に成立した『[[魏略]]』によると、当時[[長安]]には安西将軍の[[夏侯楙]]が駐屯しており、彼が臆病で無策な人物であるということから、魏延は漢中における軍議で、自らが精鋭5千を指揮して長安を奇襲する作戦を提案したとが、。しかし諸葛亮は魏延の作戦を採用しなかった。[</ref>
 
魏の朝廷では蜀にはただ劉備がいるのみであり<ref>もっとも魏の朝廷では名将は関羽のみ(「劉曄伝」)諸葛亮、関羽、張飛は人傑であり警戒すべきなどという記録もある(「程昱伝」、「傅子」)</ref>、その劉備は既に死に数年に渡って蜀は行動を起こしていなかった為蜀に対するしての計略、備えや計略はなく、抑えとして夏侯楙を置く程度の認識であったが、諸葛亮が突如3郡を降したことにより朝廷、民衆は恐慌状態に陥ったという(『魏略』)。涼州刺史には諸葛亮の親友であった孟建が就任していたが、この直前に[[徐邈]]へと交代している。
 
[[228年]]春、諸葛亮はまず斜谷道から[[眉県|郿]]を奪うと宣伝し、[[趙雲]]・[[鄧芝]]を箕谷に布陣させた。そして自らは主力を率いて西に回り込み、祁山を攻めた。蜀に備えていなかった魏は動揺し、[[天水郡|天水]]・[[南安郡|南安]]・[[安定郡|安定]]の3郡が蜀に寝返り南安の領民が蜀軍を連れて隴西まで進出した。太守[[游楚]]が抵抗し蜀軍の指揮官に攻撃の無意味を呼びかけると蜀軍はすぐに兵を引いた。涼州刺史の徐邈は武威から東進し南安に軍を派遣した。この時、上邽に逃亡した天水太守馬遵の部下[[姜維]]は、蜀への内通を疑われて魏での逃げ場を無くし、諸葛亮に降伏している。
 
事態を危惧した魏帝[[曹叡]]は長安に親征し、夏侯楙を更迭して[[曹真]]に関中方面を固めさせ、諸葛亮に対しては祖父代以来の将である張郃を派遣して、諸領の奪回を命じた。これに対して諸葛亮は、歴戦の、魏延・[[呉懿]]等に任せるべきという論者の声があったが、馬謖を抜擢して大軍の指揮を任せ、街亭で張郃に備えさせた。
 
馬謖は街亭に進軍布陣王平に板楯蛮の内応をさせたが失敗。'''王平を信頼せず裏切りを懼れた'''馬謖は恐慌状態となり、諸葛亮の指示に背き行動は妥当性を欠いていた。張郃伝には馬謖は南山を頼みとして、城に楯籠らなかったとある。更に馬謖は副将[[王平]]の再三の諌めを聞かず、水路を捨てて山上に陣を構えた。そうこうしている内に張郃軍が街亭に到着した張郃はまず蜀軍の水を汲む道を断ち、水を断たれた蜀軍の士気が下がると攻撃をしかけ、これを大いに打ち破った。'''馬謖は向朗の下へ敵前逃亡'''し、蜀軍の大半は潰走したが、王平が指揮を執った1000人の兵だけは、軍鼓を打ち鳴らし整然と踏みとどまったので、張郃は伏兵を警戒して追撃を断念した。
[[天水]][[安定]]両軍の間には秦嶺山脈から北に山地が伸びており、その山地の杣を穿つように街道が伸びていた。杣の西側に街亭は在り、其処を護り切るだけで魏に打撃を与えられた。又、街亭は王平の出身部族たる板楯蛮が居り、彼等の内応も期待できた。
 
馬謖は街亭に進軍し王平に板楯蛮の内応をさせたが失敗。'''王平を信頼せず裏切りを懼れた'''馬謖は恐慌状態となり、諸葛亮の指示に背き行動は妥当性を欠いていた。張郃伝には馬謖は南山を頼みとして、城に楯籠らなかったとある。更に馬謖は副将・王平の再三の諌めを聞かず、水路を捨てて山上に陣を構えた。そうこうしている内に張郃軍が街亭に到着。まず蜀軍の水を汲む道を断ち、水を断たれた蜀軍の士気が下がると攻撃をしかけ、これを大いに打ち破った。'''馬謖は向朗の下へ敵前逃亡'''し、蜀軍の大半は潰走したが、王平が指揮を執った1000人の兵だけは、軍鼓を打ち鳴らし整然と踏みとどまったので、張郃は伏兵を警戒して追撃を断念した。
 
[[高翔]]は列柳に布陣していたが、雍州刺史の[[郭淮]]に敗北した。曹真が趙雲と鄧芝対して派遣した兵力は敵手よりも少なかったがこれを撃破し退却させることに成功したが、趙雲が自ら殿軍となり、兵をよく取り纏めて守りを固めたため大きな被害を与えることはできず、趙雲らは輜重を従えて撤退することに成功した。曹真自身は安定まで進軍し、月支を陥落させた。
 
諸葛亮は、街亭の敗戦を聞き進軍路の確保に失敗したことを知ると全軍を撤退させた。この時西県を制圧し、1000余家を蜀に移住させた。
 
また、この敗戦に因り長安の奪回は事実上不可能となった。
 
==戦後==
50 ⟶ 43行目:
敗戦した馬謖は戦場から旧友の[[向朗]]の下へ逃亡し向朗もそれを黙認するも、直に捕縛され投獄・処刑された(「馬良伝」「向朗伝」)。これが有名な[[故事]]「'''[[泣いて馬謖を斬る]]'''」である。馬謖配下の将校である張休と李盛も処刑され、将校の黄襲の配下の兵も剥奪となった。そして向朗は馬謖逃亡を黙認した為に北伐の事務から外され成都に帰還、また諸葛亮も責任を取って3階級降格して丞相から[[右将軍]]へ、趙雲も鎮軍将軍へ降格したものの<ref>「諸葛亮伝」によると箕谷では不戒の失敗があったという</ref>、街亭で善戦した王平のみは官位が上がり参軍の地位を加えられた。
 
蜀漢による北伐で、魏国の皇帝を督戦の為に引き出したのはこの戦役のみであり([[五丈原の戦い]]では、曹叡は対呉方面へ親征した)、戦役の規模も雍州から涼州にまで及ぶなど、最も大きいものであった。魏が蜀に対して備えていなかったこの戦役で祁山一帯を占領できなかった蜀軍は、以後蜀に備えた魏との戦いにおいて苦戦を強いられることになった。魏は蜀に対し曹真・司馬懿・[[郭淮]]・[[陳泰]]・[[鄧艾]]と、最優秀戦力の指揮官を投入する事となる
 
== 脚注 ==