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滝瀧 (会話 | 投稿記録)
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その後、主人(船場言葉では「旦(だん)さん」。“旦那さん”が訛ったと思われる)の裁量で[[手代]]となる。小僧から手代までおおむね10年である。手代はその字の通り、主人や番頭の手足となって働く(手代の時の呼び名は'''「*吉」「*七」'''等で、下位の番頭と同じである)。そして、[[番頭]]を任され(大商店では“小番頭” “中番頭” “大番頭”と分けられる時があり、呼び名は'''「*助」'''である)主人の代理として店向き差配や仕入方、出納や帳簿の整理、同業者の寄合への出席など支配人としての重要な業務を任されるようになる。
 
番頭となるのはおおむね30歳前後であり、支店をまかされたり[[のれん分け|暖簾分け]]され自分の[[商店]]を持つことが許される。ただしそこに到達するまでは厳しい競争に勝ち抜く必要があった。例えば、江戸期の[[三井家]]の丁稚の場合、暖簾分けまで到達できるのは300人に1人であった<ref>「[[江戸東京博物館]]」展示資料より。</ref>。そのため丁稚になった者の生涯未婚率が高く、江戸後半に人口頭打ちとなった要因と言われている。そもそも農地拡大が限界に達して、長男(その嫁)以外は田畑を継げず丁稚に出されたのが実情である。※明治以降になると化学肥料・品種改良・農薬などが発達し、戦後は食糧輸入の増加によって養える人口が増えている
 
==報酬==
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==丁稚制度の消滅==
丁稚の数は江戸時代に最も多く、[[明治維新]]以降には次第に近代的な商業使用人へと転換されていった<ref name="世界大百科事典">『[[世界大百科事典]]』(平凡社)「でっち」の項目</ref>。しかし丁稚の名残が残っている飲食店・美容室などは、低賃金・長時間労働といったブラック企業が多く、丁稚に近いといえる
 
1928年3月13日、東京神田の巌松堂少年店員42人、丁稚奉公制度に抗して争議して、なぐること、名前に「どん」をつけること、玄米食、積立金に反対し、月3回休みなどを要求した<ref>東京朝日新聞</ref>。