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師良の次は平河三郎良貞(または良氏)、法名を観蓮と号し、建長二年に領地を継承する。同五年には師良の子良円(俗名不詳)も領地を譲られている。
建長三年、永吉地頭職が初めて押領される。当時球磨郡内には西村の地がもう1箇所(現錦町西
これを受けて良貞は正応二年、行性・郡連を相手に相論を展開するが、しかしおそらくは敗訴したため、今度は平河弥五郎(法名道照)が幕府へ越訴する。永仁年中、この案件は惣越訴御内へ移管され、担当奉行の諏方左衛門(法名直性)が審理に入るも、直性は途中で異動となり、代わって担当した二番御手の奉行明石民部大夫(法名行連)が元亨元年、道照の言い分を却下したため、道照は翌年改めて越訴に及んでいるが、その後の裁判の行方については史料の欠如から判明していない。
以後の平河氏の動向は、相良氏との関係を中心としたものに移行していく。
両者の関係が史料上最初に確認されるのは、建長四年三月二十五日付の「人吉庄南方寅岡名地頭職相伝系図」である。相良長頼の子長貞が「平河三郎」を名乗るとあるものの、平河氏の名は「師」や「貞」が多く、「長」を名に持つ人物は認められないため誰のことを指しているのかは判らない。
次いで見受けられるのは文治二年三月付の「人吉庄南方松延名田数得田米田付け雑物等実検注進状」で、人吉庄内松延名の預所として「良峯師種」の名がある。
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