「松江藩」の版間の差分

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寛永15年(1638年)、[[結城秀康]]の三男・[[松平直政]]が18万6000石で[[信濃国|信濃]][[松本藩]]より転封した。以後、出雲一国は[[越前松平家]]の領するところとなった。また松平家は公儀御料となった隠岐1万4000石も預かることになった。
 
藩の財政は年貢米による収入のみでは立ち行かず、入当初より苦しかった。このため早くから[[専売]]制を敷き、[[木蝋]]、[[朝鮮人参]]、木綿、そして鉄の生産を統制した。特にこの地は古くから、[[たたら製鉄]]や[[たたら吹き]]によって砂鉄から鉄を生産することが盛んだった。[[享保]]11年(1726年)5代・[[松平宣維|宣維]]は田部<small>(たなぶ)</small>・桜井・絲原<small>(いとはら)</small>の大山林地主3家を中心に組合による独占制度での製鉄をおこなった。
 
不昧<small>(ふまい)</small>と号した7代・[[松平治郷]]は特に有名な藩主である。先代・[[松平宗衍|宗衍]]の代より藩政改革に着手していた家老・[[朝日茂保|朝日丹波]]を引き続き起用して財政再建を推進した結果、[[寛政]]年間(1789年 - 1801年)には8万両もの蓄財が出来るまでになった。治郷は藩財政の好転を期に、かねてからの趣味であった[[茶道]]に傾倒して[[不昧流]]を創設した。名器の蒐集も行っているが、その目録である『雲州蔵帳』や、著書『古今名物類聚』、そして『瀬戸陶器濫觴』上中下巻は茶道研究の重要な資料の一つとなっている。また茶道との絡みで、松江の町はこの頃より[[京都市|京都]]・[[奈良市|奈良]]・[[金沢市|金沢]]と並び和菓子の一大名所となった。茶や和菓子のみに留まらず、松江および出雲地方では今日でも、治郷が好んだ庭園や工芸品などが「不昧公好み」と呼ばれる一つの銘柄と化しているほどである。しかしその反面、晩年に至っては膨大な散財から再び藩財政を傾けることとなった。