「擲弾発射器」の版間の差分

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擲弾発射器の歴史は、[[フリントロック式]]の[[マスケット銃]]の時代まで遡る。当時、[[手榴弾]]の[[投擲]]を担当する[[兵科]]として[[擲弾兵]]があったが、[[攻城戦]]の場合、人力では投擲距離が足りないことが多かったため、専用の発射器{{enlink|Hand mortar}}が開発された。これは小銃の口径を拡大し、手榴弾を装填できるようにしたもので、小銃弾よりも遥かに重い手榴弾(擲弾)を発射する圧力に耐えられるように、銃身を思い切って短縮するかわりに火砲並みの分厚いものとなった。この極端に短い銃身により初速はかなり遅くなったが、これにより、擲弾は[[放物線]]を描いて飛翔することになり、防壁越しの射撃には適することから、一時期[[ヨーロッパ]]では多用された。しかし低初速ゆえの命中精度の低さが問題になり、戦闘形態の近代化が進むにつれて使われなくなっていった{{Sfn|床井|2008|pp=88-93}}。
 
[[第一次世界大戦]]で[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]が構築されると、敵の[[塹壕]]に手榴弾(擲弾)を投射する必要から、再び擲弾発射器が注目されることになった。このときには、フリントロック式発射器と同様の発想で、小銃の銃口部にカップ型の発射機を装備して、ここに手榴弾を入れて空砲で射出するもののほか、手榴弾に丸棒をつけて銃口に差し込んで空砲で射出するものなどが開発された{{Sfn|床井|2008|pp=88-93}}。ただし、特に小銃を使用して投射する[[小銃擲弾]]は、大重量の擲弾を射出する必要から、通常よりも薬室圧力が上昇するため反動が激しく、肩付け射撃ができないため射撃精度が低く、また小銃本体の消耗も激しいという問題があり、[[戦間期]]には、[[ドイツ国防軍]]の[[5 cm leGrW 36]]や[[大日本帝国陸軍|旧日本陸軍]]の[[八九式重擲弾筒]]、[[イギリス陸軍]]の[[SBML 2インチ迫撃砲]]のような専用の小型[[迫撃砲]]([[コマンド迫撃砲]])が志向されることになった{{Sfn|ワールドフォトプレス|1986|pp=54-62}}{{Efn2|イタリアではカルカノ小銃用にM28「トロンボンチーノ」が開発され、これは小銃の右側面に発射器を外付けするアドオン式擲弾発射器であったが、この方式が他国でも普及するには、後世の[[M203 グレネードランチャー]]の登場を待たねばならなかった。}}。
 
[[第二次世界大戦]]では、小銃擲弾や小型迫撃砲のような対人兵器のほか、[[対戦車兵器]]としての擲弾発射器も登場した。これは、従来の[[徹甲弾]]であれば高初速が必要だったのに対し、[[モンロー/ノイマン効果]]を用いた[[成形炸薬弾]]の場合、むしろ低初速の[[対戦車擲弾]]のほうが適しているためであった。また[[ベトナム戦争]]では、視界の悪い[[熱帯雨林]]での戦闘に対応して、薬莢に薬室をもたせたハイ・ロー・プレッシャー弾を使用することで、個人携行できる擲弾発射器(いわゆる「擲弾銃」)が開発された{{Sfn|弾道学研究会|2012|pp=830-836}}{{Sfn|床井|2008|pp=88-93}}。