「長嶋茂雄」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
100行目:
{{main|天覧試合}}
[[ファイル:Weekly_Shōnen_Sunday_first_issue.jpg|サムネイル|「[[少年サンデー]]」創刊号の表紙を飾る長嶋]]
[[6月25日]]、[[後楽園球場]]で行われた[[天覧試合]](対[[阪神タイガース#球団名称|阪神]]<ref>{{refn|group="注"|1946年から1960年までの正式な球団名称は「大阪タイガース」であったが、この間も略称として「阪神」が、通称として「阪神タイガース」が使われていた。</ref>}}戦)では、4対4で迎えた9回裏、先頭打者の長嶋が阪神の二番手、[[村山実]]から[[サヨナラゲーム|サヨナラ]]本塁打を放つ。この試合を機にプロ野球人気が大学野球のそれを上回るようになったとされ、また、長嶋の勝負強さが日本中に知れ渡るようになった<ref>[[松下茂典]]著「あの日、野球の神様は“背番号3”を選んだ - 天覧試合昭和34年6月25日」</ref>。なお、同試合では当時ルーキーであった[[王貞治]]も本塁打を打っており、106回あった[[ON砲|ONアベック本塁打]]の第1号になった。
 
2年目となった同年シーズンは、シーズン途中まで、パリーグの葛城とともに3冠ペースだったが、終盤に本塁打と打点が伸びなかった。2位・[[飯田徳治]]の.296を大きく引き離す打率.334を記録し、自身初の首位打者を獲得。本塁打はリーグ3位の27本塁打、打点はリーグ4位の82打点を記録した。
131行目:
9月18日の阪神とのダブルヘッダーの第2試合。巨人が序盤からリードし、5対0となった4回表の場面、3番の王に対して、阪神の[[ジーン・バッキー]]が2球続けて死球寸前のボールを投げてきた。王はマウンドに詰め寄って抗議し、ベンチからも選手、コーチ陣が飛び出し乱闘となる。この乱闘でバッキーと巨人の[[荒川博]]打撃コーチが退場となった。そしてバッキーに代わって[[権藤正利]]が登板したが、王の後頭部を直撃する死球をぶつけてしまう。王は担架で運ばれ、試合は20分中断された。乱闘に参加しなかった長嶋は、その直後、権藤の投じたカーブを打ち返し、35号の3ランを打った。さらに8回にも2ランを放ち決着をつけた。
 
1968年シーズンは王に次ぐリーグ2位の打率.318、王と[[デーブ・ロバーツ (1933年生の内野手)|デーヴ・ロバーツ]]に次ぐリーグ3位の39本塁打を残し、リーグ最多の125打点を記録して打点王となった。39本塁打は2019年に[[坂本勇人]]に抜かれるまで、巨人の生え抜き日本人右打者の1シーズン最多記録であった<ref>{{refn|group="注"|外様を含めると2004年に[[小久保裕紀]]が41本塁打を打ち、巨人軍史上初の右打者の40本塁打を達成。2010年には[[アレックス・ラミレス]]が49本塁打を打ち小久保の記録を更新及び巨人の外国人右打者のシーズン最多本塁打となった。</ref>}}。4度目のセ・リーグMVPを受賞。
 
==== 1969年 ====
149行目:
 
=== 現役引退 ===
[[1974年]][[10月12日]]、中日の優勝が決まり巨人のV10が消えた日、長嶋は現役引退を表明{{#tag:refrefn|group="注"|当時[[ニッポン放送ショウアップナイター]]の実況アナウンサーであった[[深澤弘]]によると、10月1日に長嶋から電話で自宅に来るように言われ、現役引退する旨を深澤に直接伝えたという<ref>ニッポン放送 編『ショウアップナイター50年 プロ野球感動名場面完全読本』ベースボール・マガジン社、2016年、27・112-116頁。ISBN 978-4-583-11069-1</ref>。}}。翌日のスポーツ新聞の一面は長嶋引退の記事一色となり、中日の優勝は脇に追いやられた<ref name="NettouProYakyuu30Ban">文春ビジュアル文庫「熱闘!プロ野球三十番勝負」[[文藝春秋社]]</ref>。引退会見では「僕はボロボロになれるまでやれて幸せだった。最後まで試合に出ますよ」と残りの中日戦2試合の出場を約束した。また、別のインタビューでは「『あしたはきっと良いことがある』。その日、ベストを出しきって駄目だったとしても、僕はそう信じ、ただ夢中でバットを振ってきました。悔いはありません」と自分の現役時代について振り返った<ref name="nytjul82007"/>。
 
引退会見翌日の[[10月13日]]の中日戦[[ダブルヘッダー]]が長嶋の引退試合となる予定だったが、降雨で14日に順延となった。この日は中日の優勝パレードと同日であり、中日側は監督の[[与那嶺要]]以下、[[星野仙一]]・[[高木守道]]ら主力はパレードへの参加を優先したため、力の衰えた選手や一軍半の選手が出場することとなった。与那嶺・星野・高木らは電話で長嶋に非礼を詫びたが、それに対して長嶋は「こっちのことより、(中日にとって1954年以来の)20年ぶりの優勝を思い切り祝ってくださいよ」と明るく答えたという<ref name="NettouProYakyuu30Ban" />。
159行目:
続く、第2試合は、4番三塁手で出場。長嶋はこの試合の第3打席で現役最後の安打をセンター前に放った。最終打席は8回裏1死一三塁で[[佐藤政夫]]から、ショートへの[[併殺打]]に終わった。試合は10対0で巨人が勝利。第2試合終了時、長嶋は名残惜しむように一人一人と握手し、最後は王と腰に手を寄せあいながらベンチに引き揚げた。
 
引退セレモニーのスピーチでは「'''我が巨人軍は永久に不滅です!'''」<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=w2pKCoe9Afo 長島茂雄の引退 1974] YouTube動画、5分21秒~5分27秒</ref><ref>[https://logmi.jp/business/articles/22730 【全文】「我が巨人軍は永久に不滅です」 長嶋茂雄の引退スピーチ] logmiBiz、2015-03-11</ref>という有名な言葉を残した。この言葉は、しばしば「'''永遠'''に不滅です」と誤って引用されている<ref>{{refn|group="注"|引退試合翌日の[[報知新聞]]の記事が、誤って“永遠に”を使っていた<ref>石山茂利夫『今様こくご辞書』208-209頁。</ref>。}}<ref>[http://datazoo.jp/w/%E6%B0%B8%E9%81%A0/3771190] TVでた蔵 2010年8月5日放送 1:30 - 2:20 NHK総合</ref><ref>[[石山茂利夫]]『今様こくご辞書』[[読売新聞社]]、1998年、203-209頁。ISBN 4-643-98075-3。</ref>。
 
長嶋の引退は[[読売新聞]]の1974年十大ニュースの4位になるなど、スポーツに留まらない社会的事件であった。
200行目:
後継監督には[[藤田元司]]が就いたが、藤田は前述の座談会に参加しており、また同座談会で川上が後継監督として名前を挙げていたこともあり、「長嶋派」のマスコミからバッシングの対象とされ、1981年に日本一になった際にもそれは続いた。
 
1980年オフ、[[埼玉西武ライオンズ|西武]]監督[[根本陸夫]]から「西武の監督やってくれないか」と声をかけられた<ref>週刊現代、2020年8月22・29日号、昭和の怪物研究/根本陸夫-「三流キャッチャー」はいかに球界の寝業師に、186頁</ref>
 
=== 第1次巨人監督退任以降 ===