「袖志」の版間の差分
Asturio Cantabrio (会話 | 投稿記録) 京都府京丹後市丹後町にある大字 |
(相違点なし)
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2021年4月10日 (土) 05:03時点における版
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袖志(そでし)は、京都府京丹後市丹後町の地名。大字としての名称は丹後町袖志(たんごちょうそでし)。日本海に面しており、経ヶ岬灯台を有する経ヶ岬などの景勝地、航空自衛隊経ヶ岬分屯基地や在日米軍経ヶ岬通信所などがある。農林水産省の「美しい日本のむら景観百選」に選定されている[1]。
袖志 | |
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北緯35度45分48.0秒 東経135度12分05.7秒 / 北緯35.763333度 東経135.201583度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 京都府 |
市町村 | 京丹後市 |
大字 | 丹後町袖志 |
人口 (2016年9月30日) | |
• 合計 | 177人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
627-0245 |
【袖志の概要をよりつかみやすい定義文に修正する。】
地理
【地理や交通について加筆する。】
丹後半島北岸に位置し、日本海に面している。集落の東側には標高451メートルの岳山(だけやま)があり、航空自衛隊経ヶ岬分屯基地のレーダーが設置されている[2]。集落内には5本の小規模な川(寺川・西川・中川・夕知川・落川)が流れている[2]。
日本海と並行して国道178号が通っており、京都丹後鉄道京都丹後鉄道宮豊線峰山駅などに向かう丹海バスの路線バス「丹後峰山線」と「海岸線」が運行されている。
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
歴史
【各時代の記述をより充実させる。出典のない文章には『丹後町史』などから出典をつける。】
中世
室町時代の応永年聞(1394年~1427年)の袖志には約20戸があり、農業を生業としていた[3]。安土桃山時代の天正年代(1573年~1591年)には採藻が始められた[3]。
近世
江戸時代の元禄年間(1688年~1703年)には嘉兵衛が主導者となり、海に潜ってテングサなどを採取する海女漁(袖志の海女)が始められた[3]。袖志の海女は西の因幡国から東の越前国まで出かけて活躍し、当時としては異色の活動だったとされる[3]。亨保年間(1716年~1735年)には延縄漁も開始し、明治期から大正期には漁業が発展している[3]。
近代
1880年(明治13年)の袖志では戸数の約6割を焼失する大火が起こり、2年後の1882年(明治15年)には全戸を焼失する大火に見舞われた[3]。 1889年(明治22年)4月1日には町村制を施行し、中浜村・久僧村・谷内村・上野村・上山村・尾和村・袖志村が合併して竹野郡下宇川村が発足した。
1927年(昭和2年)3月7日には丹後半島北部を震源とする北丹後地震が発生したが、下宇川村域では16戸が半壊した程度であり、甚大な被害を受けた地域と比べると「特記すべきことはほとんどなかった」とされる[4]。
現代
1955年(昭和30年)2月1日、間人町・豊栄村・竹野村・上宇川村・下宇川村の5村が合併して丹後町が発足。丹後町の大字として袖志が設置された。同年10月1日時点の世帯数は109世帯、人口は513人だった[2]。
2004年(平成16年)4月1日、丹後町が周辺5町と合併して京丹後市が発足。京丹後市の大字として丹後町袖志が設置された。2016年(平成28年)9月30日時点の世帯数は79世帯、人口は177人だった[2]。
教育
【袖志分校跡地の写真をアップロードして追加する。】
1875年(明治8年)1月15日、袖志と尾和を学区とする袖志尋常小学校が万福寺の東隅の一室に開校した[5]。1877年(明治10年)には袖志集落の西端に校舎を新築した[5]。1904年(明治37年)には補習科が設置され、1907年(明治40年)7月には小字宮の成に校舎を新築した[5]。1925年(大正14年)4月には中浜校と袖志校が合併して下宇川尋常高等小学校が発足し、中浜校が本校と、袖志校が分教場となった[5]。
1953年(昭和28年)には袖志分校の新校舎が完成した[5]。1962年(昭和37年)8月には本校から4年遅れて完全給食を実施した[5]。1975年(昭和50年)4月には丹後町立下宇川小学校・上宇川小学校・下宇川小学校袖志分校・竹野小学校此代分校が統合されて丹後町立宇川小学校が開校し、下宇川小学校袖志分校は閉校となった[6]。1953年(昭和28年)建築の校舎の一部は2020年(令和2年)時点でも現存している。
名所・旧跡・観光スポット
【他の名所・旧跡・観光スポットなどがあれば追加する。各スポットの説明を修正したり加筆する。出典がついていない文章に出典をつける。写真をアップロードして追加したり、にある既存の写真と差し替える。】
- 間主神社 - 袖志の氏神。延喜7年(907年)再建と伝わる[7]。境内では旧暦7月25日・26日に牛市が開かれたとされ、境内には「宇川牛発祥地」碑がある[7]。
- 万福寺 - 曹洞宗の寺院。承応2年(1653年)開創。清涼山九品寺を管理している。2018年(平成30年)には毎月発行の「月刊万福寺」が500号を迎えた[8]。
- 穴文殊 - 高さ約10mの海食洞であり、真上に建つ清涼山九品寺の通称でもある[9]。
- 経ヶ岬 - 柱状節理が発達した海食崖が卓越する岬[10]。京都府・近畿地方最北端の地。
- 袖志の棚田 - 「日本の棚田百選」に選定されている棚田[13]。目線と同じ高さに水平線が見えるのが珍しいとされる[14]。
- 袖志漁港 - 第1種漁港[15]。サザエやワカメを中心とする[15]。
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間主神社
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万福寺
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穴文殊
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袖志の棚田
経ヶ岬分屯基地・経ヶ岬通信所
【航空自衛隊・在日米軍に関する説明を追加する。】
袖志には航空自衛隊経ヶ岬分屯基地がある。太平洋戦争中の1942年(昭和17年)5月には大日本帝国海軍の監視所が設置され、1957年(昭和32年)12月に東部訓練航空警戒隊第9083隊の基地となると、1958年(昭和33年)12月には航空自衛隊に移管された[16]。2014年(平成26年)12月にはアメリカ合衆国のミサイル防衛(BMD)システムの一部をなすXバンドレーダーが配備され、在日米軍経ヶ岬通信所の本格稼働が開始された[17]。
出身者
【著名な出身者がいないか調べる。いなければ節を除去する。】
脚注
- ^ “美しい日本のむら景観百選”. 農林水産省. 2021年4月8日閲覧。
- ^ a b c d “袖志地区” (PDF). ふるさとわがまちわが地域. 2021年4月9日閲覧。
- ^ a b c d e f 丹後町『丹後町史』丹後町、1976年、258-260頁。
- ^ 丹後町『丹後町史』丹後町、1976年、499頁。
- ^ a b c d e f 丹後町『丹後町史』丹後町、1976年、599-600頁。
- ^ “京丹後市立宇川小学校 沿革史”. 京都府教育委員会. 2021年4月8日閲覧。
- ^ a b 袖志 丹後の地名
- ^ “月刊万福寺 500号 住職・村上さん 41年間、地域のために 仏の教えわかりやすく”. 毎日新聞. (2018年4月21日) 2021年4月8日閲覧。
- ^ “穴文殊”. 京丹後ナビ. 2021年4月8日閲覧。
- ^ “経ヶ岬・経ケ岬灯台”. 京丹後ナビ. 2021年4月8日閲覧。
- ^ a b c “経ヶ岬灯台”. 海の京都. 2021年4月8日閲覧。
- ^ “日本の灯台50選”. 燈光会. 2021年4月8日閲覧。
- ^ “袖志の棚田”. 京丹後ナビ. 2021年4月8日閲覧。
- ^ 中島峰広(監修)・NPO法人棚田ネットワーク(編集)『全国棚田ガイド TANADAS』家の光協会、2017年、p.150
- ^ a b “京丹後市の漁港”. 京都府. 2018年9月2日閲覧。
- ^ “経ヶ岬分屯基地の沿革”. 航空自衛隊. 2021年4月9日閲覧。
- ^ “米軍関連交通事故 京丹後市長、防衛相に要請文 情報提供求め”. 毎日新聞. (2021年3月19日) 2021年4月8日閲覧。
参考文献
- 丹後町『丹後町史』丹後町、1976年。