「オランダ東インド会社」の版間の差分

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概要
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関係人物イサク・デ・ピント
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会社といっても商業活動のみでなく、[[条約]]の締結権・軍隊の交戦権・[[植民地]]経営権など[[喜望峰]]以東における諸種の特権を与えられた[[勅許会社]]であり、帝国主義の先駆け。[[アジア]]での交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。資本金約650万[[ギルダー]]、[[重役]]会は{{仮リンク|17人会|nl|Heren XVII}}と呼ばれた。これには同国の銀行の[[ホープ商会]]も参加した。本社は[[アムステルダム]]に設置され、支店の位置づけとなる[[オランダ商館]]は、[[ジャワ島|ジャワ]]や[[平戸市|平戸]]などに置かれた。
 
1602年の創業から1796年までの間、貿易と植民地化を推し進めるために、インドネシア、 日本、インド、その他アジアの国々に、約百万人のヨーロッパ人を約5000隻の船で送り込み、同社の事業には数千人のアフリカ人とアジア人の奴隷化も含まれていた<ref>[[水原紫織]]『もう一人の「明治天皇」箕作奎吾』2020年、ヒカルランド、p.6464</ref><ref>[https://archive.jewishcurrents.org/august-14-isaac-de-pinto-and-the-dutch-east-india-company/ '''Jewish Currents AUGUST 14''', 2016, Lawrence Bush, ''ISAAC DE PINTO AND THE DUTCH EAST INDIA COMPANY'']</ref>。
 
== 歴史 ==
===設立までの背景===
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複式簿記は、主に仕訳帳と元帳を使い、日々の財務は日記帳に記録した。支店は主力商品である香辛料帳と、現金出納帳で管理した。上級簿記係という担当がおり、簿記係や書記を統括していた。帳簿係は毎年アムステルダムの委員会に集まり、帳簿が精査された。そのため在外商館では正確な記録が求められた。アジアの商館の中では平戸および長崎商館の帳簿が分析されており、仕訳帳が精緻化していたことが確認された{{Sfn|橋本|2019|pp=76-81}}。
 
== 関係人物 ==
=== イサク・デ・ピント ===
[[ポルトガル]]生まれの[[ユダヤ人]]イサク・デ・ピント(1717〜1787)は、1748年にオラ ンダ東インド会社の取締役に就任した。翌年には[[オランダ西インド会社]]の取締役に就き、[[英国]]の総[[公債]]の22%に相当する巨額の融資を英国に対して行った。<ref>[[水原紫織]]『もう一人の「明治天皇」箕作奎吾』2020年、ヒカルランド、pp.63-64</ref><ref>[https://archive.jewishcurrents.org/august-14-isaac-de-pinto-and-the-dutch-east-india-company/  '''Jewish Currents AUGUST 14''', 2016, Lawrence Bush, ''ISAAC DE PINTO AND THE DUTCH EAST INDIA COMPANY'']</ref>
 
== 主要年表 ==