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貞和二年九月二日、筑後経尚の八代出陣に際し、人吉庄一部地頭平河小三郎師頼(前述の良峯師種の子孫か?)が従軍、葦北庄田河(現葦北郡芦北町田川か)内の関所にて合戦に及び、同十五日には右太股を負傷するなど奮戦している。
 
文和元年には平河三郎貞世・八郎貞家兄弟が、六月九日豊前国赤庄(現福岡県田川郡赤村か)内の笠松・八月七日大宰府(現福岡県太宰府市の大宰府政庁を指すか)近郊の吉野と転戦した後神嶽城を守護し、十一月十二日の椿忠隈(現福岡県嘉穂郡穂波町の椿および忠隈か)合戦に際して兄貞世が戦死、弟貞家も右足甲に傷を負った。しかし貞家は二十四日の大宰府合戦に加わって峯薬師堂城を攻略し、敗走する敵を竹曲まで追撃した際左手首をさらに負傷したが、そのまま浦城(現福岡県太宰府市連歌屋2丁目の浦ノ城、もしくは同浦城の岩屋城)攻略に参加している。さらに同二年正月二十二日の合戦の際にも活躍し、二月二日の菊池後攻め合戦(針摺原の戦いか)にも参戦している。一貫して北朝方の年号を用いていること、筑後経尚に従軍していることから、この時期の平河氏は少弐氏の傘下にいたことが伺える。
 
一方で、平河氏が肥後国外にも所領を有していたことが確認できる。日向国真幸院(現宮崎県えびの市内か)などを給された平河又三郎師里、同国三俣院(現宮崎県北諸県郡三股町か)内の地を給された平河小三郎師頼などで、彼らは康永四年、近隣領主との間に濫妨沙汰を引き起こし、そのことを訴えるべく上洛した使者を待ち伏せして殺害に及んでいる。
 
しかしその後、「相良定頼并一族等所領注文」に見られるように、平河氏は永吉庄の半分175町を相良定頼へ給される形で失ってしまう。これは永吉庄、すなわち平河氏が少弐頼尚に属していたためであり、具体的な時期について明言はないが、同状には「一色殿御下文目録」との裏書が認められることから作成年代は建武三年の一色範氏九州赴任から、延文三年の一色直氏上洛までの間に想定される。加えて「相良氏系図」によれば、相良定頼は正平十二年に日向国の地を賜ったとあり、前出の注文には「(少弐)頼尚跡」は永吉庄のほか日向国にも及んでいたことが記されていることから、これらの少弐頼尚没官領が定頼へ給されたのであれば、平河氏が永吉庄の半分を失ったのはこのとき、すなわち延文二年/正平十二年である可能性が指摘できよう。