「コンスタンティヌス2世」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
17行目:
| 出生日 = [[314年]][[3月]]?、[[316年]][[2月]]?、[[316年]][[夏]]([[8月]])?、[[317年]][[2月]]?
| 生地 =
| 死亡日 = [[340年]][[春]]([[4月9日]]以前)
| 没地 =
| 埋葬日 =
39行目:
皇帝[[コンスタンティヌス1世]]とファウスタ([[マクシミアヌス]]帝の娘)の間に長男(コンスタンティヌス1世には前妻ミネルウィナとの間に長男[[クリスプス]]がいる為、コンスタンティヌス1世から見れば次男)として生まれるが、母親は不義密通の罪で処刑された。[[宦官]]が取り仕切る宮廷内で他の2人の兄弟とともに育てられる。335年以前に結婚したことが記録から知られている。
 
337年5月22日に、21歳の時(異説あり)、父コンスタンティヌス1世が死去しその葬儀が[[コンスタンティノープル]]で行われたが、滞在地の距離から参加しなかった。葬儀のしばらく後(9月)で、コンスタンティノープルにいる親族は[[粛清]]された(首謀者はおそらく次男コンスタンティウス2世)。その後、3人の兄弟は会談を行い、9月9日に揃って即位した。コンスタンティヌス2世は帝国全土に及ぶ権威を有していたが、実際には3人が独立君主として政治を行った。コンスタンティヌス2世は[[ブリタンニア]]、[[ガリア]]、[[ヒスパニア]]を統治していたが、三弟コンスタンス1世に北アフリカの領土の分割を要求した。拒否されたためアルプスを越えて、弟の領土へ攻め込んだ。340年春、北イタリアへ侵攻するが、事前の準備が不十分だったことから[[アクィレイア]]近くで行われた戦闘で捕らえられ、殺害された。治世は僅か3年足らずであった。没年齢は20代前半から20代半ばと推定される。子孫は残していない
 
なお、コンスタンス1世は戦闘自体には直接参戦しておらず、4月9日になって兄コンスタンティヌス2世の死を知らされている。このことからコンスタンティヌス2世は340年4月9日以前に殺害され、没年齢は20代前半から20代半ばと推定される。子孫は残していない。
 
== 捏造疑惑 ==
47 ⟶ 49行目:
一説にコンスタンティヌス2世の実母はファウスタではなく、実父の妾だった女性とも言われている。この場合、コンスタンティヌス2世は非嫡出子となる。また、父の前妻ミネルウィナを実母とし、クリスプスの同母弟とする文献もあるが、歴史家の間では否定的である。いずれにしても、この2つの説を採用する場合、[[コンスタンティウス2世]]と[[コンスタンス1世]]は異母弟にあたることになる。
 
また、実母に関する異説と関連するが、コンスタンティヌス2世は317年2月に生まれたと考える学者もいる。この説の場合、コンスタンティヌス2世の弟にあたるコンスタンティウス2世が317年8月7日に生まれている為、ファウスタを実母とすることに疑問が呈されされているのである。317年2月に生まれたのであれば、亡くなった時の年齢は23歳となる。
 
また、316年2月生まれ(24歳没)、316年夏(8月)(23歳没)生まれ、314年3月生まれ(25歳没または26歳没)という別説も並立している。