「ダヴィド・ベン=グリオン」の版間の差分

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[[マルクス主義]]者<ref>Green, David B. (December 17, 2012). "This day in Jewish history / A great Zionist mind dies young". Ha'aretz. Retrieved December 17, 2012.</ref>でポアレ・ツィオンの創設者だった[[:en:Ber Borochov|ベル・ボロコフ]]<ref group="注釈">マルクス主義シオニストで、労働シオニズムの創始者の一人。</ref>の死後、ポアレ・ツィオンは左派と右派に別れ、1919年にベン=グリオンは、彼の友人であり、[[労働シオニズム]]の右派勢力の指導者だったベルル・カツネルソンと共に。ポアレ・ツィオン右派は[[アフドゥト・ハアヴォダ]]([[:en:Ahdut HaAvoda|Ahdut HaAvoda]])を立ち上げ、1919年にベン=グリオンはリーダーとなった。[[1920年]]12月には「[[ヒスタドルート]] [[:en:Histadrut|Histadrut]]」(シオニスト労働同盟パレスチナ)を結成し、後にその書記長となって、イギリス統治下のユダヤ人社会での労働者の地位向上に注力した。また、自衛組織の[[ハガナー]]の結成にも関わり[[アラブ人]]による[[キブツ]]の襲撃に軍事的に対抗した。
 
1930年にはヒスタドルートを基盤として、[[ハポエル・ハツァイル]]([[:en:Hapoel Hatzair|Hapoel Hatzair]]、青年労働者、1905年にA. D. ゴードンにより創設された)と合同し、より労働党右派の傾向の増した「マパイ党<ref group="注釈">英: [[:en:Mapai|Mapai]]、ミフレゲット・ポアレイ・エレツ・イスラエル(『イスラエルの地』労働者党)、『建設的社会主義』を旗印に掲げたが、聖書を信奉するため、反共路線だった。</ref> 」を結成して政治的影響力を強め、ベン=グリオンは指導者となった。マパイは左派の機関だったが、他の派閥ほど左寄りではなかった。労働シオニズムの左派の代表としてはマパム([[:en:Mapam|Mapam]])があったが、労働シオニズム右派は世界シオニスト機構の議会において優勢化する傾向があった。1935年にはベン=グリオンはパレスチナのユダヤ機関の執行委員会の議長となり、役職は1948年のイスラエル建国まで続いた。
 
1936年から1939年にかけてのパレスチナでのアラブ人暴動の間、ベン=グリオンは『''Havlagah''』と呼ばれる、[[ハガナー]]やその他の集団に、アラブ人のユダヤ市民に対する攻撃への報復はせず、自衛に専念するよう呼びかける抑制政策を行った。