「ダイユウサク」の版間の差分

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Kame 000 (会話 | 投稿記録)
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== 戦績 ==
=== 4歳([[1988(1988]])〜5歳([[1989(1989]]) ===
ダイユウサクは体質の弱さもあってかデビューが大幅に遅れ、4歳になってからしばらく経った1988年[[10月30日]]・[[京都競馬場|京都]]での400万下条件戦でデビューした。しかし、このレースでは[[溝橋秀吉]]騎乗で臨むも、結果は勝ち馬から13秒も離された最下位(11着)に終わった。次走の[[福島競馬場|福島]]での未勝利戦でも7.3秒遅れて最下位(14着)に敗れ、この年は2戦して未勝利に終わっている。2戦とも[[タイムオーバー (競馬)|タイムオーバー]]に相当する大敗だった。
 
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準オープン馬になったダイユウサクはその後、[[ダート]]の貴船ステークスこそ10着と完敗したものの、比叡ステークス2着、ゴールデンホイップトロフィー2着、逆瀬川ステークス3着と好走して、シーズンを終えている。
 
=== 6歳([[1990(1990]]) ===
6歳になったダイユウサクは半年の休養の後、6月の[[CBC賞]]から復帰した。格上挑戦だったCBC賞で4着、自己条件に戻ってジュライステークスで4着、再び格上挑戦した[[セントウルステークス]]で3着となった後、自己条件のムーンライトハンデキャップで[[村本善之]]とのコンビで勝ち、ついにオープン馬になった。
 
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天皇賞後、ダイユウサクは[[みやこステークス|トパーズステークス]]、飛鳥ステークスとオープン特別を2連勝して、この年を終えている。
 
=== 7歳([[1991(1991]]) ===
7歳になったダイユウサクは年明け、京都で行われた[[京都金杯|金杯(西)]]で1番人気で優勝、これがダイユウサクの初の[[重賞]]制覇だった。[[大阪杯|産経大阪杯]]で[[ホワイトストーン]]の2着に入った後、裂蹄のため半年間休養したダイユウサクは秋に復帰すると、[[京都大賞典]]5着、[[スワンステークス]]4着、[[マイルチャンピオンシップ]]5着と好走した。
 
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7歳で有馬記念に勝利したのは[[スピードシンボリ]]、[[グリーングラス]]に続いて3頭目だった。また、有馬記念の単勝馬券が[[万馬券]]となったのは初めてであった<ref>2012年現在においても唯一の記録である。</ref>。このダイユウサクの人気のなさに[[馬主]]の橋元幸平すらも有馬記念に勝てる訳が無いと思い、[[中山競馬場]]に観戦に来ず、表彰式では橋元の娘など関係者が代行で表彰式に出席したという逸話も残っている<ref>橋元は娘などに「[[東京ディズニーランド]]に行って、そのついでに中山にでも行っておいで」と言っており、有馬記念の方がおまけ扱いであった。</ref>。ただ、内藤はレース前から勝てるという確信があったため、正装で中山競馬場に入場している<ref name="100名馬"/>。
 
=== 8歳([[1992(1992]]) ===
ダイユウサクは翌年も現役を続けたものの、大阪杯6着、天皇賞(春)9着、[[安田記念]]8着、[[宝塚記念]]8着、高松宮杯14着、[[スワンステークス]]15着と6戦していずれも5着以内に入れず、この年限りで引退した。