「花井吉成」の版間の差分

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* 慶長19年([[1614年]])松平忠輝配下の海津城主の花井吉成に宛がい[[与力]]分として6千石が与えられた中に桑原村、若宮村、内川村の名が見られる。他に[[更級郡]]の四ツ屋村、二柳村、とふくじ(東福寺)村、今井村、[[水内郡]]のなかごい(中越)村、[[高井郡]]の沼目村が列記されている(花井家文書)。
 
慶長18年([[1613年]])8月21日に死去、法名は摩尼宝殿覚月照徹大禅定門。墓所は[[長野市]][[松代町 (長野県)|松代町]]松代の西念寺。吉成の没後、子の義雄が待城の城代となり、父の遺領を引き継いだほか慶長19年には忠輝より[[長野盆地|善光寺平]]の9ヶ村の知行を与えられている。しかし[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])1月21日の[[徳川家康]]没後数ヶ月の後、改易に処され[[茨城県]][[笠間市|笠間]]に配流された。後に[[群馬県]][[高崎市|高崎]]に移されている。
 
==参考文献==