「織田信昌」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
年月日
1行目:
'''織田 信昌'''(おだ のぶまさ ? - [[天正]]2年8月([[1574年]])8月)))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。四郎三郎。[[織田信光]]の子。[[織田信成 (戦国武将)|織田信成]]の弟。
 
[[伊勢国]]の[[北畠氏]]攻めでは、[[織田信長]]、[[織田信雄|信雄]]、[[織田信包|信包]]ら同族主家格の下に付き、活躍する。
 
1574天正2年8月(1574年)に長島[[一向一揆]]との合戦で討死。
 
[[Category:戦国武将|おたのふまさ]]
9行目:
 
----
'''織田 信昌'''(おだ のぶまさ、[[1625年]]([[寛永]]2年) - [[1650年]][[8月6日]]([[慶安]]3年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]))は、[[上野]][[小幡藩]]の第2代藩主。初代藩主・[[織田信良]]の次男。[[幼名]]は百介。官位は従四位下因幡守、兵部大輔。
 
寛永3年7月([[1626年]]7月、父の死により家督を継ぐ。わずか2歳の幼児だったため、叔父の[[織田高長]]が後見人となって政務を担当した。1631寛永8年2月15日(1631年)[[征夷大将軍]][[徳川家光]]に御目見する。このとき家臣三人も同伴する。これは家格の高さを示す優遇措置である。1639寛永16年12月[[大晦日]](1639年)従五位下因幡守に叙任する。後に従四位下に昇進する。
 
1643寛永20年7月7日(1643年)幕府から[[館林城]]の守備を命じられた。1645[[正保]]2年6月10日(1645年)初めて領地に赴任する許可を得る。陣屋を小幡村に移築、さらに領内の検地を実施するなど、藩政の基礎を固めた。1647正保4年5月22日(1647年)幕府から[[下館城]]の守備を命じられた。1650慶安3年7月9日(1650年8月6日)、26歳の若さで死去し、後を養子[[織田信久]]が継いだ。
 
正室は[[小笠原政信]]の長女。信昌の死後、離籍し、[[中院通茂]]と再婚した。1女あり。