「馬淵嘉平」の版間の差分

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馬渕氏は[[宇多源氏]]で、祖先の[[馬渕高政|馬渕孫左衛門高政]]は[[天正]]13年([[1585年]])[[近江国|近江]][[長浜市|長浜]]にて[[山内一豊]]に仕え、[[慶長]]6年([[1601年]])に[[土佐国|土佐]]に入国した。嘉平は高政から数えて七代目にあたる。
 
子の[[馬渕桃太郎]](とうたろう)は、[[坂本龍馬]]と同じ[[桶町千葉道場|千葉道場]]玄武館で剣術修行極めている。また、[[桃井道場]]でも[[武市瑞山]]らと共に剣術修行をしていた。嘉永6年(1853年)6月3日、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀に来航した折は、坂本龍馬と共に品川警備の任に就いた。慶応4年(1868年)2月15日に起こった[[堺事件|泉州堺事件]]では六番歩兵隊長[[箕浦猪之吉]]の介錯人を務めた。箕浦とは昵懇であり、前もって箕浦が介錯を頼んでいた(寺石正路著「明治元年土佐藩士泉州堺列挙」参照)。
 
剣客[[川崎善三郎]]に[[鏡新明智流]]を指南した一人(清水昇「幕末維新剣客列伝」参照)。明治維新後は高知にで[[撃剣興行]]一座を率い、大阪での興行には[[川崎善三郎]]も共に参加している。