「専福寺 (山口県田布施町)」の版間の差分

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専福寺の開祖は宗慶である。二世は宗慶の子、宗順である<ref>防長寺社由来第二巻124頁、山口県文書館編</ref>。宗慶は僧侶で歌人、医師でもあったと言い伝えられ、富小路家代々の家業である医業、医道、歌道<ref>富小路家 フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)</ref>の謂われか、とも言われている<ref>専福寺蔵書</ref>。1592年(元和9年)から宗慶の遷化年である1657年(明暦3年)までは、僧房に院主の宗慶、後の二世宗順、後の三世玄知、後の四世賢秀、そして十二世門主准如上人の弟子である修行僧、了慶の五名が暮らしていた<ref>防長寺社由来第二巻124頁、山口県文書館編</ref>、<ref>専福寺蔵書</ref>。開基宗慶の遷化の後、二世宗順はその翌年の1658年(明暦4年)に遷化、三世玄知は、宗順の没後3年の1661年(寛文元年)に遷化、四世賢秀は、1670年(寛文10年)に遷化した。了慶は、宗慶の遷化から22年後に佛照山了法寺を大嶋郡久賀村から買い取り、四世<ref>防長寺社由来第二巻173頁、山口県文書館編</ref>として、また相続後の開基として1679年(延宝7年)に遷化している<ref>周防國風土記273巻73 コマ番号165</ref>。
 
開基宗慶の出自、俗姓については諸説ある。諸説の原因と考えられる史料は周防国風土記であり、防長地下上申、防長風土注進案も同様である。1842年(天保12年)の頃、1592年(元和9年)から1657年(明暦3年)までの時代を知る家に伝わる話しが庄屋に聞き取られ、上関宰判を通して萩藩へ申告された。その内容を藩が編纂したのが周防國風土記である。それによると、宗慶の俗名は簾坂何某とある。また同時代に、寺、自らが申告した史料が残されている。防長寺社由来である<ref>防長寺社由来第二巻124頁、山口県文書館編</ref>。それには、1806年(文化3年)寅四月に専福寺の十世智永が、上関宰判の平田仁左衛門宛てに、「古来の申し伝えでは京都の冨小路家御由緒共歟」、と申告している。俗名、簾坂又三郎重行こと了慶<ref>了法寺(山口県田布施町) フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)</ref>と宗慶を取り違えた伝聞のようである。100年以上の時を経て、調査が聞き取りで行われたことによる瑕疵のようである。宗順が京から連れ帰った若い修行僧の了慶は、寛永から明暦にかけての20数年間を、宗慶、宗順、後の三世玄知と共に寺で勤行し、葬儀、法事等で門徒とも深く関わっている。
 
1657年(明暦3年)、宗慶遷化の後、宗順は宗慶のあとを継ぎ、専福寺の院主となり、了慶は大嶋郡久賀村から波野の隣村、吉井村に寺を買い取り佛照山了法寺の開基<ref>「周防国風土記 拾六 熊毛御宰判之内 宿井吉井両村、『周防国風土記 273巻』[73]、国会図書館、131頁</ref>、<ref>山口県文書館『防長寺社由来』第2巻、1982年10月20日、124頁,173頁</ref>となり、それぞれが後の世に代を重ねている。1658年(明暦4年)に二世宗順の遷化後、三世玄知、そして四世賢秀、五世岸貞、六世宗碩、七世智海、八世智門、九世智諦、十世智永、十一世崇永、十二世崇栄らが寺の跡を継いだ<ref>防長寺社由来第二巻124頁、山口県文書館編</ref>。十三世晃耀の時、明治維新で誕生した新政府が発した平民苗字必称義務令により、晃耀は槙殿晃耀となり<ref>専福寺蔵書</ref>、以後、明治から昭和の時代にかけて、十四世槙殿晃英、十五世槙殿秀水、十六世槙殿陸朗へと代を重ね、2003年(平成15年)9月、十六世槙殿陸朗の遷化により富小路家に由緒ある寺族は断絶、後に浄土真宗本願寺派の教師、中島学が17世を継ぎ、現在、18世を中島学の子、中島賢友が継いでいる。