「明治天皇」の版間の差分

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113.255.111.60 (会話) による ID:83065686 の版を取り消し/デジタルコレクションを参照しろとはむしろこちらの台詞ですが。手紙のもっと前の部分を読んでください。明らかに公議論(朝廷にではなく)への不満が述べられており、会議では空論が多く話が進まないとしており、大久保は天皇親政を指向する流れです。普通に読めば「未だ朝廷不羈(≒(会議に)縛られずに朝廷が動ける)の根本あい立たず」で、公議府(諸侯会議のなれの果て)を廃して(手紙本文の後に解説に廃されたと書いてますよね?)朝廷を自由に動けるようにしたい、と書いてるだけではないでしょうか? 書簡集の扱いを見ても、単に過渡期のその時の政情を書いただけであり、明治維新の意義をまとめたような大きな文章でないのも明白でしょう。
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→‎幕末の動乱: 小御変革:wikipediaは独自の研究を主張する場ではない。削除してはいけない。検証可能な大久保利通の手紙に記された朝廷の「小御変革」は、現代語に訳されたことのない特記事項。水原紫織 氏は古典文献から古典音楽の再現をして東京芸大120周年でも演奏されたいる専門家。他に検証可能な現代語訳があれば提示すればいい。
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践祚から間もなく、薩摩藩や一部の公卿を中心に討幕論が形成され、[[江戸幕府|幕府]]と討幕派はそれぞれ[[朝廷]]への工作を強めていた。慶応3年[[10月15日 (旧暦)|10月14日]](1867年[[11月9日]])、[[征夷大将軍]]・[[徳川慶喜]]が討幕の大義名分を消滅させるために[[大政奉還]]を奏上した為、翌15日(11月10日)、明治天皇は上奏の勅許し、約680年続いた[[武家政権]]に終止符を打った。[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]([[1868年]][[1月3日]])、薩摩藩・広島藩・尾張藩・福井藩・土佐藩による政変が発生すると[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]を発し、新政府樹立を宣言する。慶応4年(1868年)12月11日(1月5日)から始まった[[戊辰戦争]]においては、[[仁和寺宮嘉彰親王]]に[[錦旗]]と[[節刀]]を与えて[[征討大将軍]]に任命し、旧幕府勢力を鎮圧した。
 
==== 小御変革 ====
[[戊辰戦争]]の最中、[[大久保利通]]が、明治2年6月4日(1869年7月12日)付で[[桂久武|桂右衛門]]に宛てた手紙<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075757/115 国立国会図書館デジタルコレクション、『大久保利通文書 第三』昭和3年、日本史籍協会]</ref>において、朝廷の根本が立たず朝廷が土崩れ状態にあったところ、"小御変革"によって納まりがついたことを伝えている。次に、その手紙の関係箇所を抜粋し、現代語訳を[[水原紫織]]『もう一人の「明治天皇」箕作奎吾』から引用する。
{{Quotation|大久保利通の手紙(原文) 一 大事之件々追々御運相成候得共 未朝廷不羈之根本相立不申候 一旦ハ殆ト土崩ニ至リ 不可成之勢御座候處 小御変革等有 之少ハ居合相付候姿ニ御座候|『大久保利通文書 第三』昭和3年、日本史籍協会、「三四五  桂右衛 門への書簡 明治2年6月4日」 p.197より抜粋}}
{{Quotation|大久保利通の手紙(現代語訳) 一 大事のあの件この件は追々進展することになりますが、未だ朝廷は手綱を解かれた馬のように自由の身であり、これでは根本が立ちません。一旦は、ほとんど崩れ果てるところまでに至り、形を成すことができない状態でしたが、小御変革などがあり、少しはおさまりがついたような姿です|水原紫織『もう一人の「明治天皇」箕作奎吾』pp.197-198より抜粋}}
 
=== 新時代・明治 ===