「チェ・ゲバラ」の版間の差分

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1967年[[10月8日]]、20名前後のゲリラ部隊とともに行動、[[アンデス山脈]]にあるチューロ渓谷の戦闘で、ガリー・プラド大尉率いる政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受けて捕えられる<ref>プラドは後に「"Como Capture al Che" 」という回想録を出版し、その中で自分はゲバラを捕えただけで、殺害は命じておらず、関与もしていないとしている。</ref>。部隊を指揮していた“ウィリー”[[:en:Simeon Cuba Sarabia|シメオン・クバ・サラビア]]とともに、渓谷から7キロほど南にある村イゲラに連行され、小学校に収容された。翌朝、60キロ北のバジェグランデからヘリコプターで現地に到着したCIAのフェリックス・ロドリゲスがイゲラで午前10時に「ゲバラを殺せ」を意味する[[暗号]]「パピ600」の電報を受信<ref>処刑は米国CIAのフェリックス・ロドリゲスとともに到着したボリビア国軍情報局のセンテーノ・アナヤ大佐の指示による。ゲバラについては顔や頭は撃たないように指示した。</ref>。午後0時40分にまずウィリーがベルナルディーノ・ワンカ軍曹<ref>ワンカ軍曹はその後報復を恐れ、ボリビアから離れてアメリカに亡命している。</ref>に[[M1ガーランド|M1]]で撃たれた後、午後0時45分、ゲバラは政府軍兵士のマリオ・テラン軍曹<ref>テラン軍曹は30年近く基地内で暮らし、顔の整形手術を経て、現在はボリビア東部の農園で暮らしている。</ref>に右脚の付け根と左胸、首の根元部分を計3発撃たれたが絶命せず、最終的には別の兵士に心臓を撃たれて死亡した。死亡の証拠として両手首を切り落とされ、遺体は無名のまま埋められた<ref>[http://www.history.com/this-day-in-history/che-guevara-is-executed Che Guevara is executed]This Day in History, 2013, Oct 9</ref>。
 
銃撃を躊躇する兵士に向けて放った「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」、そして撃ち損じた当人に向けての「お前の目の前にいるのは英雄でも何でもないただの男だ。撃て!臆病者め!!」が最期の言葉であった<ref>[http://www.margencero.com/articulos/che_40aniv/cheguevara_guerrilla.htm Pasajes y personajes de la guerrilla de Ñancahuazú] 意訳のうえ、解釈が様々である為これ以外の表現もある。</ref>。<!--(実際にはマリオ・テラン軍曹が撃つ時に躊躇していたため、ゲバラに「恐れるな、早く撃て!」と言われ、右脚を撃ち抜いたものの、ゲバラはまだ生きていた。恐怖で部屋を出たテラン軍曹を上官が叱責し、とどめをさしてこいと命令され、もう一度ゲバラが収容されている部屋へ入った。ゲバラは「ちゃんと狙って撃て」と言い、テラン軍曹は左胸と首を撃った。それでも絶命しなかったため、別の兵士がゲバラを仰向けにし、至近距離で心臓を撃ち抜いた)-->
 
ゲバラのゲリラ戦術は、キューバでの実戦経験に裏付けられて完成されたものだった。少人数のゲリラで山岳に潜伏し、つねに[[前衛]]、[[本隊]]、[[後衛]]とわけて組織的に警戒し、必要があれば少人数で奇襲的な襲撃を仕掛けるというものだった。