「リヒャルト・ワーグナー」の版間の差分

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ワーグナーはマイアベーアを1846年にも尊敬していたが、1849年6月に指名手配を受けたワーグナーはパリでのマイアベーア流行に対して資本主義的音楽産業の兆候とみえ、憎悪するようになった<ref name="geck1-68-71"/>。ワーグナーは友人テーオドーア・ウーリクとマイアベーアの『[[預言者 (オペラ)|預言者]]』を観劇し、「純粋で、高貴で、高慢で、真正で、神的で人間的なものが、すでにそのように直接暖かく、至福の存在において息づいている」と称賛しているが、これは嘲笑ともされ、この時期にワーグナーは「内心軽蔑していたパトロンたちにさえ、馬鹿にされていたのが実は我々だった」とリストに述べている<ref name="geck1-68-71"/>。
 
翌[[1850年]]、ワーグナーが変名で『[[音楽におけるユダヤ性]]』を「[[新音楽時報]]」に発表し、ユダヤ人は模倣しているだけで芸術を作り出せないし、芸術はユダヤ人によって嗜好品へと堕落したと主張した<ref name="ItoWag">[[#伊藤嘉啓1981]],pp.1-19.</ref><ref name="aritaWag">[[#有田亘]],p31-42</ref>。また、「ユダヤ人は現に支配しているし、金が権力である限り、いつまでも支配し続けるだろう」とも述べた<ref name="ItoWag"/>。ワーグナーは1850年以前はユダヤ人の完全解放を目指す運動に与していた<ref name="po574-585">[[#ポリアコフ III]],p.574-585.</ref>。ワーグナーは『音楽におけるユダヤ性』で、マイアベーアを名指しでは攻撃せずに、ユダヤ系作曲家[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン・バルトルディ]]を攻撃し、またユダヤ解放運動は抽象的な思想に動かされてのもので、それは自由主義が民衆の自由を唱えながら民衆と接することを嫌うようなものであり、ユダヤ化された現代芸術の「ユダヤ主義の重圧からの解放」が急務であると論じた<ref name="po574-585"/>。ワーグナーによれば、メンデルスゾーンは最も特殊な才能に恵まれ、繊細かつ多様な教養を有しているが、心を魂をわしづかみにするような作用をもたらさないとし、またバイロイト時代には才能を持っているが力を伸ばすにつれて愚かになっていく猿と評した<ref name="geck1-38-40"/>。ただし、ワーグナーは[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]『[[フィンガルの洞窟 (メンデルスゾーン)|ヘブリデス]]』序曲(1830年)を称賛し、崇高であるとも評価し、1871年には自分が移調ができないことに対してメンデルスゾーンならば手を叩いて喜んだだろうとも述べており、さらにメンデルスゾーン本人よりも、メンデルスゾーン一派が台頭させて、価値を創造せずにただ商品を流通させているだけの「音楽銀行家」を批判した<ref name="geck1-38-40"/>。また、1843年の「パウロ」ドレスデン初演をワーグナーは激賞し、メンデルスゾーンも「さまよえるオランダ人」ベルリン初演を称賛した<ref name="geck1-38-40">[[#マルティン・ゲック上]],p.38-40.</ref>。メンデルスゾーンは1847年に死去しており、『音楽におけるユダヤ性』はその三年後に発表された<ref name="geck1-38-40"/>。
『音楽におけるユダヤ性』を発表して以降、ワーグナーはマイアベーアの陰謀で法外な非難を受けたと述べ、1851年にワーグナーは[[フランツ・リスト|リスト]]に向けて、以前からユダヤ経済を憎んでいたと述べ<ref name="ItoWag"/>、[[1853年]]にはユダヤ人への罵詈雑言をリストの前で述べるようになっていた<ref name="po574-585"/>。