「市川團十郎 (9代目)」の版間の差分

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== 九代目の肉声 ==
九代目の肉声を記録した音盤の類は、今日現存しない。ただ、[[トーマス・エジソン|エジソン]]の[[蓄音器]]が初めて[[浅草]]・奥山の[[浅草花やしき|花屋敷]]で見世物に出された[[1890年]]([[明治23年]])7月、同月22日付けの[[読売新聞]]に「此の蓄音器には西洋音楽を吹き込みあるが(中略)團十郎、菊五郎等の名優は此の頃同所へ行きて何か芝居の物語りを吹込む由」という記事があり、團菊両優が好奇心で奥山へ蓄音器見物に行き、即席に演目は不明ながら、歌舞伎のセリフを初期の[[蝋管レコード]]に吹き込み、それが公開されたことは確かなようである。さらにその9年後の[[1899年]]([[明治32年]])、「紅葉狩」の映画が撮影された年の4月、歌舞伎座の本興行で「勧進帳」を演じ終えたばかりの團十郎が、翌5月、菊五郎始め「勧進帳」で共演した主な役者を築地の自宅に集め、一幕をそっくり蓄音器に録音したという記録がある<ref>「[[東京朝日新聞]]」1899年5月10日付け朝刊記事「勧進帳と蓄音器」</ref>。これには後日談があり、吹込みから24年後、團菊左とも既にこの世にない[[1923年]]([[大正12年]])3月26日付けの[[都新聞]]に、市川家にまだ残っていたその蝋管レコードを、日本蓄音器商会(ニッチク=[[日本コロムビア]]の前身)が改めて当時最新の[[SPレコード]]に吹き込み直しているという記事が掲載された。ただ、それ以後の続報は一切なく、原盤がどうなったのかも不明のままである<ref>倉田喜弘『日本レコード文化史』、岩波現代文庫 2006</ref>。
 
なお、演劇評論家の[[渡辺保]]によれば、自身がかつて所有していた[[三遊亭圓右#初代|初代三遊亭圓右]]による九代目の[[声|声色]]のSPレコード(「[[白浪五人男]]」の[[日本駄右衛門]])を聞いた印象として、「決して美声ではなく」、「ドスの利いた低音で声量があり」、「堂々たる幅のあるせりふ」であったという<ref>『歌舞伎 研究と批評7』 歌舞伎学会編、リブロポート刊 1991、15p</ref>。