「竹東鎮」の版間の差分

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竹東の古名は「橡棋林」という。これは先住民が初めてこの地に至った際、橡棋樹が多い茂っていたのを目にしたことから命名された。また橡棋を別名「樹杞」と称することから「樹杞林」とも称される。
 
漢人が入植する以前、この地は原住民が狩猟遊耕をを行っていた。当時は有力な「紅面番」が地域の中心となっていたと言われているが、民族的に恐らく賽夏族人によって構成されていたと推測されている。この生活も乾隆年間中期になると変化を向かえることとなる。[[1796年]]、恵州人が上、下七份及び麻園肚一帯に入植し村落を形成するようになった。その5年後、饒平人林欽堂は重埔、員山一帯の開拓に乗り出し,40余人が入植した。[[1776年]]にはこの地は広く開発が進み田地は77甲を数えるようになった。[[1806年]]、彭乾和と金恵成により大規模な開拓が計画され、道光年間には一般に[[閩客合資の十四股]]が成立、次第に東部の大窩浪(現在の瑞峰里)に広がり、銃櫃,募丁把守を設置、公館を上公館(現在の上館里)に設置し1000余甲の規模となった。
 
竹東鎮が開発された初期、行政区は淡水庁の管轄に属し、竹塹堡東南廂と称された。[[1875年]]、淡水と新竹が分割されると、新竹県に帰属し,竹北一堡樹杞林荘と称された。[[1890年]]に新竹と苗栗が分割された際には更に竹塹堡樹杞林荘と称されるようになった。