「マリー・アントワネット」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m (GR) File renamed: File:Marie Antoinette Young4.jpgFile:Marie Antoinette in a red hunting habit-1772.jpg Criterion 2 (meaningless or ambiguous name) · "Young4" is meaning less, here is the official name of the pastel painting: https://www.habsburger.net/en/media/joseph-kranzinger-marie-antoinette-red-hunting-habit-pastel-vellum-c-1768-1
314行目:
== 女官・侍女 ==
* {{仮リンク|アンヌ・クロード・ルイーズ・ダルパジョン|fr|Anne Claude Louise d'Arpajon|label=ノアイユ伯爵夫人}}
**侍女長ないし女官長。[[ノアイユ]]家。1775年、[[ランバル公妃マリー・ルイーズ|ランバル公妃]]が女官の新たな筆頭職に就いたのと入れ替わりで辞職。1794年6月27日、夫[[フィリップ・ド・ノアイユ|フィリップ]]ともどもパリで[[ギロチン]]刑に処された。
* {{仮リンク|アンリエット・カンパン|fr|Henriette Campan|label=カンパン夫人}}
**1786年に部屋つき第一侍女に就任(第一侍女は数人いた。なお、侍女長ないし女官長だったノワイユ伯爵夫人、さらに侍女総監ないし女官総監だったランバル公妃や[[ポリニャック公爵夫人ヨランド・ド・ポラストロン|ポリニャック公爵夫人]]らとは別の役職)。父は外交官ないし高級官僚。帝政下に開いた学校にて[[ナポレオン・ボナパルト]]の子女を教育したことを理由に、[[フランス復古王政|王政復古後]]は[[マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス|マリー・テレーズ]]から絶縁される。その後マリー・アントワネットの回想録を出版した<ref>『マリー・テレーズ』恐怖政治の子供、マリー・アントワネットの娘の運命 スーザン・ネーゲル著 2009年 近代文学社 P268</ref>。