「斎藤素巌」の版間の差分

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== 経歴 ==
父知三、母かねの三男として、[[東京府]][[東京市]][[牛込区]](現在の[[東京都]][[新宿区]])に生まれる。東京府立第四中学校(現在の[[東京都立戸山高等学校]])を経て、[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]](現在の[[東京芸術大学]][[美術学部]])西洋画科卒業。
 
1913年、英国へ渡り、[[ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ|ロイヤル・アカデミー]]で[[彫塑]]を学んで1916年に帰国、東京・本郷菊坂町に落ち着き、のちに[[田端文士村]]に転居。1918年、第12回[[文展]]で「敗残」が特選。1926年、[[日名子実三]]とともに[[彫刻]]と[[建築]]の総合をめざして[[構造社]]を結成。1943年、現在の小平市学園東町に転居<ref>その後、死去まで同地で過ごす。狭山・境緑道(小平グリーンロード)の[[小平駅]]~[[花小金井駅]]間に齋藤の作品15基が設置され、「齋藤素巌・彫刻の小径」と名づけられている。</ref>。