「金日成」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
m編集の要約なし
107行目:
しかし、日本側の巧みな帰順工作や討伐作戦により、東北抗日聯軍は消耗を重ねて壊滅状態に陥り、小部隊に分散しての隠密行動を余儀なくされるようになった。[[1940年]]の秋、金日成は党上部の許可を得ないまま、独自の判断で、生き残っていた直接の上司・魏拯民を置きざりにし、十数名ほどのわずかな部下とともに[[ソビエト連邦]]領[[沿海州]]へと逃れた<ref>和田春樹『北朝鮮 遊撃隊国家の現在』岩波書店、1998年、43-46頁。</ref>。
 
ソ連に越境した金日成は、[[スパイ]]の容疑を受けて[[ロシア国境軍|ソ連国境警備隊]]に一時監禁される。その後、東北抗日聯軍で金日成の上司だった中国人の[[周保中]]が彼の身元を保証して釈放される。1940年12月の[[ハバロフスク]]会議を経て、金日成部隊は周保中を旅団長とするソ連[[極東軍管区|極東戦線]]傘下の[[第88独立狙撃旅団 (ソ連軍)|第88特別旅団]]に中国人残存部隊とともに編入され、金日成は第一大隊長(階級は大尉)となった。彼らはソ連ハバロフスク近郊の野営地で訓練・教育を受け、解放後には北朝鮮政府の中核となる<ref>但し、北朝鮮の公式文献では40年代に金日成らがソ連領内に退却していたことについて触れておらず、金日成の息子である'''[[金正日]]'''も、[[ハバロフスク]]近郊のヴャツコエや[[ウラジオストク]]近郊のオケアンスカヤではなく[[白頭山]]で生まれたことになっている。</ref>。
 
=== 帰国後、指導者へ ===
158行目:
[[1969年]]以降、満州派内部においても、金昌奉、許鳳学、崔光([[1977年]]に復帰)、石山、金光侠らが粛清された。[[1972年]]には憲法が改正され、金日成への権力集中が法的に正当化されたが、それ以降も粛清が継続され、金日成の後妻の金聖愛([[1993年]]に復帰するが翌年以降再び姿を消す)、実弟の[[金英柱]]([[1975年]]に失脚、[[1993年]]に国家副主席として復帰)、叔父の娘婿(義従兄弟)の楊亨燮([[1978年]]に復帰)など身内にも失脚者が出た。1977年には国家副主席だった金東奎が追放され、後には[[朝鮮民主主義人民共和国の強制収容所|政治犯収容所]]へと送られた。
 
金日成の独裁体制が確固なものとなった1972年以降は、金日成派の[[プロレタリア独裁|執権]]を脅かす要素が外部からは観察できない。それでもなお、忘れた頃に小規模ながらも粛清が展開されている。これらの粛清が何を目的としたものかは不明である。[[全体主義]]体制の整理であるとする立場、満州派から金日成個人への権力集中過程だとみなす立場、'''[[金正日]]'''後継体制の準備であるとする立場など無数の見方があるが、いずれの立場にとっても決定的な論拠となる情報を入手出来ないのが実情である。<!--後継体制を準備するための粛清だという見方にはいくつかの反論があります-->
 
=== 独裁体制の確立 ===
226行目:
2000年の[[南北首脳会談]]で、息子の金正日は、晩年の金日成が、ソ連のクレムリン病院の[[ペースメーカー]]を付けていたと述べた。ペースメーカーを付ければ、[[血液]]の凝集現象が現れ、急死の原因となる。だから西側諸国や中国では[[アスピリン]]を服用することが多いが、ソ連からはそのような説明は受けず、「魚を食べるのがいい」といった従来の常識に従っていたのが間違いだったと述べた<ref>林東源:著、波佐場清:訳『南北首脳会談への道 林東源回顧録』岩波書店、2008年、p51~52</ref>。
 
1994年には、息子の'''[[金正日]]'''が病気治療中であったため死亡までの間、様々な課題の解決に向けて金日成は自ら精力的な陣頭指揮に当たることになる。内政では低迷が続く経済を復活させるための農業指導と先鋒開発。外交面では一触即発ともいわれたアメリカとの関係を改善するために、[[ビル・クリントン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の密命を帯びた[[ジミー・カーター]]元大統領の招朝実現と直接交渉による局面打開が課題であった。一点を掴めば問題の核心とその解法が掴めるという彼特有の「円環の理論」に基づく賭けでもあったが、交渉の結果「[[米朝枠組み合意]]」を結ぶことで決着。さらには当時の[[大韓民国|韓国]][[大統領 (大韓民国)|大統領]][[金泳三]]との間で開催されることが決まったいた初の[[南北首脳会談]]の話題が持ち上がっており、彼の突然の死は世界に衝撃を与えた。
 
死去前日にも経済活動家協議会を召集。農業第一主義・貿易第一主義・軽工業第一主義を改めて提起。[[セメント]]生産が成否を握ると叱咤した上で<ref>この映像と音声は記録映画『偉大な生涯の1994年』に収録</ref>、党官僚の[[形式主義]]を声を荒らげて非難しながら、やめていたはずの[[たばこ|煙草]]を[[喫煙]]した後に寝室に入ったとの情報がある<ref>{{cite news||author=[[李相哲]]|title=【秘録金正日(8)】「労働者の忠誠心は高いのですが食べることができず…」に衝撃 食糧配給の途絶 ただ一人知らされなかった〝裸の王様〟|newspaper=[[産経新聞]]|publisher=[[産経新聞社]]|date=2015-1-20|url=http://www.sankei.com/smp/premium/news/150120/prm1501200005-s.html|accessdate=2017-4-22}}</ref>。