「全日空羽田沖墜落事故」の版間の差分

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=== 墜落確認 ===
[[File:Mainichi19660207.jpg|thumb|60便の事故とともに[[成田国際空港|新東京国際空港]]反対派が[[千葉県庁]]に乱入した事件を報じる、1966年2月7日付の毎日新聞夕刊。相次ぐ羽田での事故を受け、新空港の議論が活発化した。(→[[成田空港問題]])]]
捜索がくなかで20時までに「東京湾海上で炎を目撃した」という通報が警察や東京海上保安本部などに寄せられていた。すでに日本航空コンベア880型機の操縦士からは「19時1分、着陸進入中に千葉の沖合方向、右下方に火の玉を見た」という報告が上がっていたが、東京湾木更津から市川に向けて航行していた貨物乗務からは「19時前対岸羽田沖3キロあたりの海上に炎が上がり、海面が一瞬明るくなった。その後に煙が立ち上った」と船舶電話で海保に報告が入った。さらには千葉市五井の[[コスモ石油|丸善石油]]千葉製油所の社員から「19時過ぎに川崎方向の海面に火を見た」という通報が警察に寄せられた{{sfn|柳田|1986|pp=339–340}}{{efn|目撃者は元[[自衛官]]であり、[[1960年]](昭和35年)の[[全日空小牧空港衝突事故]]でも救助に当たっていた。}}などが、。それらはいずれも墜落時に起きたと思わ推測される炎を東京湾の海上に目撃しており、首都圏の内陸部で航空機の墜落や不時着を目撃しとの通報や報告も皆無であることから、羽田沖の海上東京湾を中心に捜索が行われることになった。
 
23時55分に捜索機が[[木更津市|木更津]]北方7[[海里]]付近において全日空の標示のある翼の一部を発見し、機体の内張りの一部及び乗客の衣類を収容し、午前0時5分に捜索船が羽田灯標東南東6.4海里で最初の遺体2体を収容した<ref name=":0" />。具体的な墜落時刻は不明なものの、19時00分20秒に最後の交信があってから応答がなくなるまでの数十秒の間と思われるが、写真では航空機関計器盤の時計が19時05分12秒を指して止まっているのが確認される<ref name=":0" /><ref>毎日フォトバンク - タイトル 「全日空機東京湾墜落事故。7時5分12秒を指す計器盤の時計」 ID:P19990610dd1dd1phj078000</ref>。
 
寒風吹きすさぶ荒れ模様の海上から懸命の[[海洋サルベージ]]が行われ、[[潜水士]]らによって遺体や機体の残骸が回収された<ref>{{Cite news |和書 |title=海よ ないでくれ |newspaper=朝日新聞 |date=1966-02-08 |page=15}}</ref>。乗客1名を除く乗客乗員132名の遺体は4月14日までに発見された。5月10日に遺体の捜索は打ち切られたが、最後の乗客1名の遺体は8月9日に[[横須賀市|横須賀]]の[[夏島町|夏島]]の岸壁に漂着しているところを発見された。記事収容時よれば遺体の頭部は失われていたが、着衣から本人と確認されたという<ref>{{Cite news |和書 |newspaper=朝日新聞 |edition=東京朝刊 |date=1966-08-10 |page=社会面}}</ref>。
 
=== 単独機として史上最悪の事故 ===
事故、導入されてから間もない最新鋭機であったことや、[[日本]]における初の大型[[ジェット機|ジェット]][[旅客機]]の墜落事故であった。事故機は導入されてから間もない最新鋭機であったことや、ほぼ満席の乗客(多くは[[さっぽろ雪まつり]]観光客)126人と乗員7人の合計133人全員が死亡し、単独機として事故当時において[[世界]]最大の航空機事故となったこともあり、世界中から注目を集めた{{efn|この事故が発生するまでは[[1962年]][[6月3日]]に[[パリ]]・[[パリ=オルリー空港|オルリー空港]]で発生し、130人が死亡した[[エールフランス007便離陸失敗事故]]が単独機として世界最悪の航空事故であった}}
 
乗客の多くは札幌で開催されていた[[さっぽろ雪まつり]]の観光客だった。そのなかには[[スタンダード靴]]の懸賞当選者(約5,000人の応募者の中24人が当選)や関連会社の社員が含まれており、いた。また団体客や接待旅行に参加していた出版業界の関係者など多数が巻き込まれたため、マスメディアで大きく報道され世間の関心を呼んだ{{efn|[[旭屋書店]]創業者の[[早嶋喜一]]、[[柴田書店]]創業者の[[柴田良太]]、[[月刊自家用車]]初代編集長の[[清田幸雄]]、[[美術出版社]]社長の大下正男らを含む)など多数が巻き込まれたため、大きく報道された}}。また、被害が甚大であったことから2月4日から同年5月10日にかけて、[[海上自衛隊]]の[[自衛艦隊]]や[[横須賀地方隊]]も[[災害派遣]]された。
 
== 事故調査 ==