「清浦奎吾」の版間の差分

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=== 内閣総理大臣退任後 ===
[[画像:Keigo and Tōko Kiyoura.jpg|200px|thumb|[[妻]]の[[清浦錬子]](右)と]]
その後、清浦は[[重臣]]に列し、新聞協会会長なども歴任した。また[[重臣会議]]に参加し、[[五・一五事件]]の際には西園寺と同様に挙国一致内閣の成立を推している{{sfn|小山俊樹|2018|p=35-34}}。また1931年([[昭和]]6年)[[満州事変]]{{sfn|小山俊樹|2018|p=33}}、1934年(昭和9年)の[[齋藤内閣]]崩壊{{sfn|小山俊樹|2018|p=33}}の際には重臣として協議に参加している。[[1941年]](昭和16年)の[[重臣会議]]で[[東條英機]]の後継首相擁立を承認した。この際、清浦は四輪の車椅子に乗り、酸素吸入器を用意して上京している{{sfn|小野修三|2018|p=34}}<ref group="注釈">なお、清浦が出席したことで、前首相でありながら病欠した[[近衛文麿]]は「その病気というのは91歳の清浦より悪いのか?」と批判されることになった。</ref>。会議では[[林銑十郎]]が皇族内閣を提案したがそれに反対し、軍部からの首相を迎えるべきと意見している{{sfn|小山俊樹|2018|p=31}}。[[1942年]](昭和17年)11月5日、92歳の長寿を全うした。なお、薨去した時点では清浦は史上最長寿の首相経験者であった<ref group="注釈">現在の記録は[[東久邇宮稔彦王]]の102歳。清浦の長寿記録は後に[[鈴木善幸]][[中曽根康弘]]と[[村山富市]]にも抜かれている。</ref>。
 
[[1992年]]([[平成]]4年)に、清浦の生家[[山鹿市]][[鹿本町]]明照寺の隣に[https://yamaga-tanbou.jp/spot/1390/ 清浦記念館]が建てられた。なお、東京都[[大田区]]中央1丁目にある春日神社の石製社号標「[[村社]] 春日神社」は清浦の筆跡。また、東京都[[文京区]]にある[[護国寺]]の石標、東京都[[品川区]]にある[[品川神社]]の石標、埼玉県深谷市にある[[渋沢栄一記念館]]の裏手にある石標にも清浦の筆跡がある。埼玉県[[さいたま市]][[見沼区]][[風渡野]]の[[大圓寺 (さいたま市)|大圓寺]](埼玉県第21区小学第三校が所在した)には清浦の顕彰碑、[[蓮沼 (さいたま市)|蓮沼]]の神明神社には清浦と共に教鞭を取った地元の名士である松澤恒次郎(象山)の顕彰碑の撰文と揮毫が清浦の筆跡である。
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