「ジーコ」の版間の差分

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{{独自研究|section=1|date=2010年8月}}
日本代表監督時代はチームに細かい約束事やペーパープランは与えず、大まかな指針を決めた後は選手間で協議をさせることで、現場の現実を組織全体の方向性に反映させるというやり方をとった。[[イビチャ・オシム|オシム]]や[[アーセン・ベンゲル|ベンゲル]]を始めとした日本で指導した有識者達の多くから、日本人は実際に起こっている現実から判断をせず、現実と乖離する決まり事に従うという独特の短所があると指摘されており、ジーコはそれが実践的な戦いの大きな妨げになっているとし「自主性」を大きなテーマとしたのである。ジーコが就任した前後の時期は、日本人選手が次々に海外リーグへと進出していく時期と重なり、中田や中村や小野など、過去の日本にはない「才能と欧州経験を兼ね備えた選手」が揃っていたため、彼らのセンスと閃きに期待が大きかったが、W杯での惨敗を受け、中田をはじめ多くのコメンテーターが「日本にはまだ早かった」と総括した。また近代サッカーにおいては、ミスの有無こそが勝敗を大きく左右すると考えていたために、特に中盤の選手には一定の技術水準を求めた<ref>「昔はゲームの中に時間とスペースがあったが今はそれが全くない。30m位のスペースの中に20人が互いにプレッシャーを掛け合っている。相手が強ければ強いほどプレッシャーが厳しく巧になり、ミスが起こりやすくなる。確かにワンタッチで相手の裏をとれれば効果的に突破できる。しかしカットされカウンターをかけられる確率はさらに高い。今のサッカーはミスの数が少ない程勝つ確率が高いんだ。どんな美しいサッカーをしても負けてしまっては歴史は作れない。何年後かに記録を見た時に残るのは“0-1で負け”の一行でしかない。そうならない為に最も確実な“止めて蹴る”が必要になるんだ。判断の早さと正確性が身についていれば、ダイレクト・プレーと比較しても時間的なロスはほとんどない!中盤はシンプルに確実に・・・相手が一番嫌がるエリア(つまり敵陣ペナルティエリアの付近)に達した時に、躊躇せずに持てる技術の全てを発揮しろ」と述べている。(鈴木通訳のブログより引用。なお、文中の「ダイレクトプレー」は実際は「ワンタッチプレー」の意である)</ref>。この選考基準に対して、走力を優先する後任の[[イビチャ・オシム|オシム]]監督は「水を運ぶ選手(豊富な運動量でチームを支える選手)が福西しかいなかった」と批判したが、一方でW杯予選を勝ち抜いたことを「ジーコの果たした仕事は大きく[[フィリップ・トルシエ|トルシエ]]より上だ。それは単純に予選を突破したという意味でね」と一定の評価をしている<ref>フェネルバフチェの監督時代にも、PSV戦での選手たちの走行距離が一人途中退場者が出たにもかかわらず、108kmだったというデータについてコメントを求められて「相手にいかにプレッシャーをかけたかを示していると思う。適切に走って相手スペースを消していけばこちらのものだ。それがこの試合でわれわれのしたことだ。PSVは特にホームで強いので厳しいゲームになると思っていた。しかし考えて走り、プレスをかけ、キッチリと相手をマークし、チーム一丸で攻めれば相手の脅威を減殺できる。相手の強力な選手たちに本来の実力をださせなかったわけで、この数字はその結果を示すものだ。」と回答している様に、判断力と技術が近代サッカーには不可欠と考える一方、それらを支える走力・フィジカルバランス等の肉体強化の重要性を、選手時代から一貫して主張している。</ref>。そのカリスマ性と人柄から多くの選手に慕われる一方、マスコミから「序列」と揶揄されてしまうほどレギュラーメンバーを欧州組に固定し、そのレギュラーが欠場しないと控えの選手になかなか出番が与えられなかったり、召集メンバー発表の際に「今日がキックオフならこのスタメン」と、試合の何日も前に予定スタメンを発表し『序列』を明確に示してしまい、サブメンバーの士気を落とさせてしまうなど、選手のモチベーションコントロールでの失敗も多く見られた。実際、2004年に起こった選手の無断外出キャバクラ事件も、入店せずに引き返した山田を除く全員がサブのメンバーで、合宿をする前から起用される選手が決められている事への不満が原因とされている。2006年W杯でも選手の士気をコントロールできず、起用法への不満やレギュラーとサブの結束が不安定な状態で迎えた初戦に敗れた事で、チームは空中分解してしまった。初戦のあとその空気に、普段温厚なジーコが今までに見せた事のないほど激怒し選手を怒鳴ったが状況は改善されず、チームは「史上最強」と言われながら良いところなく敗退した。
 
日本代表監督として招集した人数はとても多く試合出場選手の総数は57人である。[http://number.goo.ne.jp/snt/coaches/zico/players/](トルシエは総数で64人 [http://number.goo.ne.jp/snt/coaches/troussier/players/])。定着はしなかったものの、オシム時代に選出されたアテネ世代の主要選手の多くは鈴木・闘莉王以外、ジーコ時代にフル代表デビューしている。
 
日本代表退任後、トルコリーグ所属[[フェネルバフチェSK|フェネルバフチェ]]監督に就任した。トルコカップは敗退したが、リーグ戦では2位に勝点差9をつけて優勝した。これは1990年以降のトルコリーグで最大勝点差である。
また、翌年のチャンピオンズリーグではクラブ史上初めてグループリーグを突破、最終的にはチームをベスト8にまで導いた。
 
日本代表監督として招集した人数はとても多く試合出場選手の総数は57人である。[http://number.goo.ne.jp/snt/coaches/zico/players/](トルシエは総数で64人 [http://number.goo.ne.jp/snt/coaches/troussier/players/])。定着はしなかったものの、オシム時代に選出されたアテネ世代の主要選手の多くは鈴木・闘莉王以外、ジーコ時代にフル代表デビューしている。
 
== 日本とジーコ ==