「村国男依」の版間の差分

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== 功臣のその後 ==
『日本書紀』は戦後行賞の記事で個人名をあげないが、12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、[[小山]]{{要曖昧さ回避|date=2021年4月}}位以上をあたえたとする記事があるので、男依が受けた位もこれ以上ではあっただろう。『[[続日本紀]]』大宝元年 ([[701年]]) 7月21日条は、先朝が壬申の論功をおこなったときに村国小依が120戸の封を賞として与えられたことを伝える。小依(男依)の120戸は最多である。だが、地方豪族出身である男依らが、功によって中央の要職を占めることはなかった。
 
村国連雄依は天武天皇5年([[676年]])7月に死去した。壬申の際の功により、外[[小紫]]が贈られた。小紫は高位だが、[[外位]]である。地方出身で出自が低い者を中央の貴族と同列にするわけにはいかないが、彼等の功績は高く顕彰したいという考慮から、「外」という位が作られたと推測されている。