「全日空羽田沖墜落事故」の版間の差分

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== 事故機に関する情報 ==
事故機である全日空60便に使用された航空機は、ボーイング727-81(100)型機(機体記号:JA8302、製造番号:18822/126)で、1965年(昭和40年)3月25日にアメリカ・ボーイング社で製造された。事故までの総飛行時間は1,703時間15分で、事故直近の500時間毎に実施される定期点検後からの飛行時間は65時間11分である。事故機は、1965年4月2日に耐空証明を取得し、同年5月に全日本空輸へ引き渡され、同月25日に国内線の主要路線に就航した。事故機の整備は全日空が担当していたが、事故に繋がるような機体の不具合は報告されていなかった。エンジンについては、Pratt & Whitney社製のJT8D-7エンジンが3発使用されていた。第1エンジン(左側)の総使用時間は1,984時間16分、第2エンジン(中央)735時間52分、第3エンジン(右側)1,374時間40分であった。総分解点検(オーバーホール)から事故までの使用時間は、第1エンジン5時間29分、第3エンジン717時間5分となっており、第1エンジンは総分解点検から間もない状態で使用されていた。第2エンジンについては総分解点検の履歴は無く、直近の定期点検(500時間毎)からの使用時間は65時間11分だった。第3エンジンも右同様の点検を受けており、点検後の使用時間も第2エンジンと同様であった。
 
== 事故の経過 ==
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== 事故調査 ==
政府は2月5日、事故原因究明のため運輸省内に「'''全日空機羽田沖事故技術調査団'''(以下'''事故調査団'''と記す。)」を設置することを決定した{{sfn|柳田|1986|p=55}}。事故調査団団長にはボーイング727型機の国内導入にあたって積極的な推薦役を果たした[[木村秀政]][[日本大学]]教授が選ばれた。事故調査団団員には、航空工学の専門家や日本航空などの航空会社職員、運輸省航空局幹部ら関係省庁技官などから計12人が選ばれ、のちに法医学者や監察医など3人の団員が追加され合計15人の調査団が組織された。事故調査にあたっては、[[連邦航空局|FAA]]やボーイング社などの技術者を主体とした製造国である[[アメリカ合衆国|アメリカ]]側の事故技術調査団との協力体制を取った。事故当時、多くの日本の航空機は飛行データやコクピット内の音声を記録する[[ブラックボックス (航空) |ブラックボックス]]を搭載していなかったが、事故機もブラックボックスを積んでおらず、飛行データに基づく原因究明は困難を極めた。事故後に機体の90%近くの残骸が引き上げられたことから、事故調査は機体の残骸を調べることを中心に行われ、727型機の飛行特性や事故機の調査、実機を使用した飛行実験なども実施された{{efn|CVRコックピットボイスレコーダー、FDRフライトデータレコーダーなどで構成され、事故原因究明に役立てるための装置。}}{{efn|直後に起きた[[英国海外航空機空中分解事故]]のボーイング707には装備されていた。}}。事故調査団の内部では、高度計の確認ミスや急激な高度低下などの「操縦ミス」を強く示唆する結論が大勢を占めていた。しかしながら一部の団員の中には、機体に何らかの不具合があったことで事故に至ったとする「機体トラブル説」や「機体欠陥説」を提唱する向きもあり、報告書の草案を作るたびに議論は紛糾した{{efn|のちの調査で東京湾上の時点では、水平もしくは緩やかな降下での飛行が判明したが、東京湾上空に差しかかる時点で既に通常より低い高度で飛行していたとの目撃報告もあった。}}。事故調査団は1970年(昭和45年)8月19日、同年1月に多数決で採択した報告書案を一部修正して結論を確定させた。同年9月29日に事故調査の最終報告書を運輸大臣に提出した。
 
全日空機羽田沖事故技術調査団が最終報告書で結論付けた事故原因は以下のとおりである。