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[[1955年]]に奨学金を得てパリへ移り、[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ国立高等音楽院]]に留学、アンドレ・ラフォス([[:en:Andre Lafosse|André Lafosse]])からトロンボーンを学んだ。学業と同時にジャズ・トロンボーン奏者としてキャバレーやクラブ、クラシック、映画音楽など様々なジャンルで演奏経験を積んだ<ref>坂本 2021. p143</ref>。卒業後に友人の紹介で[[ルネ・レイボヴィッツ]]([[アルノルト・シェーンベルク]]の弟子の1人)から4年間、作曲の個人レッスンを受けた<ref name=":6">坂本 2021. pp143-144</ref><ref name=":0" />。レイボヴィッツの自宅でのサロン・コンサートには[[ジャン=ポール・サルトル|サルトル]]や[[クロード・レヴィ=ストロース|レヴィ=ストロース]]などがしばしば招かれており、グロボカールも様々な分野の専門家と接して興味の範囲を広げ、また前衛音楽演奏家としてのキャリアを積んだ<ref name=":6" />。
 
[[1964年]]にはDAADからの奨学金を得て[[ベルリン]]に移り、[[ルチアーノ・ベリオ]]の下で作曲を学び、また彼から[[カールハインツ・シュトックハウゼン|シュトックハウゼン]][[ピエール・ブーレーズ|ブーレーズ]]の音楽活動を学んだ<ref name=":7">坂本 2021. pp144-146</ref>。グロボカールはベリオのトロンボーン独奏のための『[[セクエンツァ (ベリオ)|セクエンツァV]]』を共同制作し、1966年に初演している<ref name=":7" />
 
1965年から翌年にかけてグロボカールは、[[ルーカス・フォス]]からの招きで米国に渡り、[[ニューヨーク州立大学バッファロー校]]で作曲家兼演奏家として滞在した。この時期に彼はオーケストラと合唱のための大作『道』を作曲し初演、それを機に出版社の[[ペータース (出版社)|ペータース]]と契約することになった<ref>坂本 2021. pp146-147</ref>
 
1966年に米国から帰国後、グロボカールは[[オペラ]]『Aus den Sieben Tagen(7つの日から)』で作曲者[[カールハインツ・シュトックハウゼン]]と仕事をし、また[[ダルムシュタット夏季現代音楽講習会|ダルムシュタット夏季新音楽講習会]][[ハインツ・ホリガー]][[アロイス・コンタルスキー|アイロス・コンタルスキー]]らと共に即興演奏を行った。グロボカールはシュトックハウゼンの推薦で[[ケルン音楽大学]]にトロンボーン・クラスを開設し、[[1967年]]から[[1976年]]までトロンボーンと作曲を教えた<ref>坂本 2021. p147</ref>
 
1969年にグロボカールはベルリンで、[[即興演奏|フリー・インプロヴィゼーション]]・グループ、'''ニュー・フォニック・アート'''('''New Phonic Art''')を(共同で)結成した。この即興演奏グループは1982年まで様々な演奏活動を行い、解散した<ref>坂本 2021. pp148-149</ref>