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==真盛寺と大相撲==
昭和20年3月10日の[[東京大空襲]]で、下町一帯は焼け野原になり、周囲にあった相撲部屋もほとんど消失、一か月ほど経ってから、後援会の取り持ちで[[玉ノ海梅吉|玉ノ海]]率いる[[二所ノ関部屋]]が間借りした。5月25日の夜の空襲で真盛寺界隈も戦渦に見舞われると、[[神風正一|神風]]ら部屋の力士たちが消火活動に奔走し火を消し止め、真盛寺は護られた。翌日焼け出された[[双葉山定次|双葉山]]が20名ほどの弟子を連れ一か月ほど身を寄せる。昭和21年10月には[[大ノ海久光|大ノ海]]が第45代横綱となる[[若乃花幹士 (初代)|若ノ花]]をスカウトし、真盛寺に連れてくる。昭和22年夏場所千秋楽の夜、若ノ花とのちの大関[[琴ヶ濱貞雄|琴ヶ濱]]が食事に行こうとすると、[[力道山]]に脱走と勘違いされ、以後目をかけられしごかれることになる。二所ノ関部屋は昭和25年に両国へ戻るが、大ノ海は杉並に残り若ノ花を連れて分家独立、杉並区阿佐ヶ谷に[[花籠部屋]](独立当初は[[芝田山部屋]])を創設する。真盛寺はのちに花籠部屋、[[貴乃花部屋|二子山部屋]]を枢軸とした「阿佐ヶ谷勢」魁の地となった<ref>杉並区立郷土博物館編「大相撲杉並場所展 : 阿佐ケ谷勢その活躍と栄光の歴史」真盛寺と二所ノ関部屋 1991.11</ref><ref>花籠昶光 『横綱づくりの秘伝 : 私の相撲自伝』 ベースボール・マガジン社P45~51</ref>。
 
 
== 施設・史跡 ==