「徳川昭武」の版間の差分

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自転車や狩猟、写真、園芸などの多彩な趣味を有した。隠居後、盛んに[[静岡市|静岡]]と往来し、慶喜と一緒に写真撮影や狩猟に出かけるなど交流を深めた{{efn|慶喜は1893年(明治26年)に生母をなくした後、公爵に叙せられ政治的地位を回復するのが1902年(明治35年)である。}}。写真撮影には熱心で自ら現像も手がけ、現在もなお多くの写真が残されている{{sfn|将軍のフォトグラフィー|1992}}。
 
また造園にも注力し、現在は千葉大学園芸学部の用地にあたる区画に西洋式庭園を築いて植物の栽培を手がけている{{sfn|徳川昭武の屋敷|2011|}}。その庭は[[与謝野晶子]]が和歌に詠んだ「松戸の丘」である<ref>{{Cite web|title=庭園の記憶―与謝野晶子の「松戸の丘」と園芸学校の絵画―千葉大学園芸学部創立100周年記念特別展|url=https://www.city.matsudo.chiba.jp/miryoku/kankoumiryokubunka/rekisi-bunka/dezitarubizyutu_top/passedexhibition/teiennokioku.html|website=まつどの観光・魅力・文化|松戸市|accessdate=2019-07-20|publisher=}}</ref>{{sfn|庭園の記憶|2009}}。
 
慶喜が1897年(明治30年)の秋に東京の巣鴨に移った翌明治31年(1898年)に篤敬が44歳で死去。遺児の[[徳川圀順|圀順]]が11歳で水戸徳川家当主となり、昭武が後見となる。