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{{出典の明記|date=2011年1月}}
{{基礎情報 武士
'''土岐 持頼'''(とき もちより、? - [[永享]]12年[[5月16日]]([[1440年]][[6月15日]]))は、[[室町時代]]中期の[[守護大名]]。[[伊勢国|伊勢]]守護。父は[[土岐康政]](やすまさ)。子に[[土岐政康|政康]]、[[東陽英朝]]。祖父の[[土岐康行]]を祖とする[[土岐氏#土岐世保家|土岐世保家]]の3代当主で、'''世保 持頼'''(よやす もちより)とも記される。「持」の字は[[室町幕府]]第4代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義持]]から[[偏諱]]を授かったものである。また、土岐世保家歴代当主で唯一[[諱]]に「康」の字が付かず、[[土岐氏]]の[[通字]]である「頼」の字を使用している。
|氏名 = 土岐 持頼
|画像 = <!-- 画像ファイル名 -->
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|画像説明 = <!-- 画像の説明文 -->
|時代 = [[室町時代]]
|生誕 = 不明
|死没 = [[永享]]12年[[5月16日]]([[1440年]][[6月15日]])
|改名 =
|別名 = 世保持頼
|諡号 =
|神号 =
|戒名 =
|霊名 =
|墓所 =
|官位 =
|幕府 =
|主君 = [[足利義持|義持]]→[[足利義量|義量]]→[[足利義教|義教]]
|藩 =
|氏族 = [[土岐氏]]
|父母 = 父:[[土岐康政]]
|兄弟 =
|妻 =
|子 = '''[[土岐政康|政康]]'''、[[東陽英朝]]
|特記事項 =
}}
 
'''土岐 持頼'''(とき もちより、? - [[永享]]12年[[5月16日]]([[1440年]][[6月15日]]))は、[[室町時代]]中期の[[守護大名]]。[[伊勢国|伊勢]]守護。父は[[土岐康政]](やすまさ)。子に[[土岐政康|政康]]、[[東陽英朝]]。祖父の[[土岐康行]]を祖とする[[土岐氏#土岐世保家|土岐世保家]]の3代当主で、'''世保 持頼'''(よやす もちより)とも記される。「持」の字は[[室町幕府]]第4代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義持]]から[[偏諱]]を授かったものである。また、土岐世保家歴代当主で唯一[[諱]]に「康」の字が付かず、[[土岐氏]]の[[通字]]である「頼」の字を使用している。
 
== 生涯 ==
[[応永]]24年([[1417年]])に父より家督を譲られて伊勢守護に任じられたが、間もなく将軍・足利義持の弟・[[足利義嗣|義嗣]]による将軍打倒計画が発覚。康政・持頼も義嗣に関与したとの疑いを持たれ、伊勢守護職を取り上げられてしまう。さらに応永31年([[1424年]])、今度は上皇の女官と密通したとの疑いにより逐電した。しかし、後に罪を許されて伊勢守護に再任されている。持頼の復帰には[[三宝院]][[満済]]らの後押しがあったとされる。
 
応永35年([[1428年]])、義持が死去。これに乗じて伊勢[[国司]]の[[北畠満雅]]が[[南朝 (日本)|南朝]]の後胤[[小倉宮聖承]]を擁して乱を起こす。持頼は新たに6代将軍となった義持の弟[[足利義教|義教]]に命じられて伊勢に下向し、一度は敗退するが[[山名氏]]や[[長野氏]]らの助力もあり満雅らを討ち取ることに成功した。しかし、その後も伊勢国内では[[北畠氏]]による反乱が度々起こっており、持頼はその対応に腐心している。