「ギゼルベルト (ロートリンゲン公)」の版間の差分

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| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 配偶者1 = [[ゲルベルガ・フォン・ザクセン]]
| 配偶者2 =
| 子女 = アルベラード<br>ハトヴィヒ<br>ハインリヒ<br>ジェルベルジュ
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== 生涯 ==
[[911年]]に東フランク王[[ルートヴィヒ4世 (東フランク王)|ルートヴィヒ4世]]が死去した後、[[ロタリンギア|ロートリンゲン]]では東西フランク両派に分かれ対立が起こり、父レニエ1世は親西フランク派リーダーとして東フランク派と戦った。その結果、西フランク派が勝利し、ロートリンゲンは西フランク王[[シャルル3世 (西フランク王)|シャルル3世]]のものとなった。[[920年]]に、レニエ1世の跡を継いだギゼルベルトはシャルル3世より独立し、ロートリンゲン王を称した。しかし、ギゼルベルトはシャルル3世に敗北し、東フランク王[[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|ハインリヒ1世]]のもとに逃げ込んだ。東西フランク王は[[921年]]11月のボン条約において互いの領土を確認し休戦を約したが、その後西フランク王シャルル3世はパリ伯[[ロベール1世 (西フランク王)|ロベール]]と対立、[[923年]]にはロベールの娘婿ブルゴーニュ公[[ラウール (西フランク王)|ラウール]]により廃位された。ギゼルベルトは当初は西フランク王となったラウールを支持していたものの、ラウールからの圧力を受けて、再び東フランク王ハインリヒ1世のもとへ走った。ハインリヒ1世は925年(または928年)に正式にギゼルベルトをロートリンゲン大公とし、[[928年]]には自らの娘[[ゲルベルガ・フォン・ザクセン|ゲルベルガ]]をギゼルベルトと結婚させた。これにより、ロートリンゲンは東フランク王国(ドイツ王国)の領土となることが確定した。934年にはハインリヒ1世によりフランケン大公[[エーバーハルト (フランケン公)|エーバーハルト]]や司教らとともに西フランク王ラウールのもとに派遣されている<ref>Leyser, p.13.</ref>。
 
[[936年]]のハインリヒ1世の死後、[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]が東フランク王位を継いだが、[[938年]]にはオットー1世の弟[[ハインリヒ1世 (バイエルン公)|ハインリヒ]]が反乱を起こし、ギゼルベルトはフランケン大公エーバーハルトとともにハインリヒ側に加わり、西フランク王[[ルイ4世 (西フランク王)|ルイ4世]]に援助を求めた。939年10月2日、ギゼルベルトらがアンデルナハの[[ライン川|ライン河畔]]で宴会を開いているところを、オットー1世は急襲し、ギゼルベルトは溺死した<ref>瀬原、p.77</ref>。ロートリンゲン大公位は、同年のうちにオットー1世に降伏したオットーの弟ハインリヒが得ることとなった。
 
== 子女 ==
928年に東フランク王[[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|ハインリヒ1世]]の娘[[ゲルベルガ・フォン・ザクセン|ゲルベルガ]]と結婚した。
 
* アルベラード(929年頃 - ?) - ルシー伯ルノーと結婚
* ハトヴィヒ - 早世
* ハインリヒ(?(932年頃 - 944年以前) - ロートリンゲン公[[オットー・フォン・ヴェルダン]]のもとで養育されたが、オットーの死去より前に早世し、ロートリンゲン公位は継承できなかった<ref>コルヴァイのヴィドゥキント、p.153</ref>。
* ジェルベルジュ(935年頃 - 978年) - [[ヴェルマンドワ伯]]アルベール1世と結婚。