「津田仙」の版間の差分

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[[民部省]]に勤めたのち、明治6年(1873年)には、[[ウイーン万国博覧会]]に副総裁として出席する[[佐野常民]]([[日本赤十字社]]の創設者)の書記官として随行。オランダ人[[農学者]]の[[ダニエル・ホイブレイク]]の指導を受け、帰国後の明治7年(1874年)5月に口述記録をまとめて『[[農業三事]]』として出版した。仙がウィーン万博から持ち帰った[[ニセアカシア]]の[[種子]]は、その後明治8年(1875年)に[[大手町 (千代田区)|大手町]]に植えられ、これが東京初の[[街路樹]]となった。
 
[[ファイル:青山學院創立者 ドーラ・E・スクーンメーカー.jpg|サムネイル|239x239ピクセル|女子小学校を創設したスクーンメイカー]]
明治7年(1874年)、米国[[メソジスト監督教会]]婦人宣教会から日本に派遣された[[ドーラ・E・スクーンメーカー]]による女子小学校(後の[[海岸女学校]])の創立に協力。明治8年(1875年)1月、同じく米国メソジスト監督教会で後に[[青山学院]]神学部教授も歴任した[[ジュリアス・ソーパー]]宣教師により[[メソジスト]]派信者として妻の初と共に洗礼を受ける。また、[[古川正雄]]らと共に盲聾唖者の教育のため[[楽善会]]を組織する。明治9年(1876年)には東京麻布に、農産物の栽培・販売・輸入、農産についての書籍・雑誌の出版などを事業とする[[学農社]]を設立、その一環として農学校も併設した。キリスト教指導も行う。