「川上操六」の版間の差分

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明治21年([[1888年]])、帰国し同22年([[1889年]])3月より参謀次長。明治23年([[1890年]])、陸軍[[中将]]に進級。
 
明治26年([[1893年]])から[[清国]]に出張の後、同年10月に参謀本部次長に就任し、設置された[[大本営]]で陸軍上席参謀兼兵站総監につき[[日清戦争]]開戦に大きく関わる。特に、第一軍の総司令官の[[山縣有朋|山県有朋]]が、独断専行して清軍に積極攻勢をかけた際には、「おやじ老いたり」と、参謀総長に進言し山県軍司令官の即時解任を提案、勅命により、山県を11月帰国させることになった<ref>半藤一利著『山県有朋』(ちくま文庫)</ref>明治28年([[1895年]])3月には征清総督府参謀長に任命される。日清戦争では、それまで川上が推し進めた軍の近代化が功を奏した。その功により8月に[[勲一等旭日大綬章]]・功二級金鵄勲章を賜り、子爵を授けられる。
 
[[台湾]]・[[仏印]]・[[シベリア]]出張を経て明治31年([[1898年]])1月に参謀総長に就任。同年9月、陸軍大将に任命されるが、翌年5月に[[薨去]]。享年52。薨去に伴い従二位に叙され勲一等旭日桐花大綬章を賜る。
 
薩摩藩出身者として藩閥の中心人物と成りうる人物であったが、本人は派閥意識を持たず、出身藩にこだわらず幅広く人材を登用し、教育方面でも、[[成城学校]](新宿区原町)校長を務めるなど、優秀な軍人育成に貢献した。墓所は[[東京都]]港区・[[青山霊園]]
 
墓所は[[東京都]]港区・[[青山霊園]]に在する。没後に[[靖国神社]]に程近い九段坂に銅像が建立された(現存せず)<ref>{{Cite journal|和書|author= 山本陽、篠原修|url= http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00902/2010/30-0235.pdf|title= アーバンデザインとしての屋外彫刻の歴史的展開に関する研究 ~戦前の東京府内公共空間に設置された屋外彫刻をケーススタディとして~ |year =2010|journal= 土木史研究講演集 |publisher=
土木学会土木史研究委員会|volume= 30|issue= |pages=235-242 |doi= |accessdate=2021-05-04}}</ref>。
 
== 栄典 ==