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<!-- 正式な国号は琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言: ルーチュークク)であり、「琉球王国」というネーミングは琉球政府唯一の公選行政主席、ならびに初代沖縄県知事であった屋良朝苗が本土復帰運動と観光誘致のために普及させた俗称である[要出典][出典無効]。 -->
== 概要 ==
[[沖縄本島]]中南部に勃興した勢力が支配権を確立して版図を広げ、最盛期には[[奄美群島]]と[[沖縄諸島]]及び[[先島諸島]]までを勢力下においた。
[[沖縄本島]]中南部に勃興した勢力が支配権を確立して版図を広げ、最盛期には[[奄美群島]]と[[沖縄諸島]]及び[[先島諸島]]までを勢力下においた。当初はムラ社会(シマ)の[[豪族]]であったが、[[三山時代]]を経て沖縄本島を統一する頃には王国の体裁を整えた。明の冊封体制に入り、一方で[[日本列島]]の中央政権にも外交使節を送るなど独立した国であったが、[[1609年]]の[[薩摩藩]]による[[琉球侵攻]]によって、外交及び[[貿易権]]に制限を加えられる(「[[掟十五条]]」)[[保護国]]となった。その一方、[[国交]]上は[[明|明国]]や[[清|清国]]と朝貢冊封関係を続けるなど一定の独自性を持ち、内政は薩摩藩による介入をさほど受けず<ref group="注">形式上は琉球国の領域とされるも直轄統治を受け事実上割譲された[[奄美群島]]を除く。また、薩摩藩による軍事行動を除き、琉球の人民の検束などは「掟十五条」に反するものであっても、代官でも無闇にできるものではなく、例えば貿易に関する不正があった場合も捜査、取り調べおよび検束は琉球王府に断りを入れてする必要があった。</ref>、1879年の琉球処分により日本の沖縄県とされるまでは、統治機構を備えた国家の体裁を保ち続けた。同国に属した事がある範囲の島々の総称として、[[琉球諸島]]ともいう。
 
当初はムラ社会(シマ)の[[豪族]]であったが、[[三山時代]]を経て沖縄本島を統一する頃には王国の体裁を整えた。明の冊封体制に入り、一方で[[日本列島]]の中央政権にも外交使節を送るなど独立した国であったが、[[1609年]]の[[薩摩藩]]による[[琉球侵攻]]によって、外交及び[[貿易権]]に制限を加えられる(「[[掟十五条]]」)[[保護国]]となった。
王家の[[紋章]]は[[巴|左三巴紋]]で「左御紋(ひだりごもん、沖縄方言:フィジャイグムン)」と呼ばれた。世界中で見られる巴文様であるが、[[家紋の一覧|紋]]としての使用は[[日本文化|日本文化圏]]<ref>本田惣一朗監修『日本の家紋大全』 [[梧桐書院]]、[[2008年]]</ref>のみである。
 
[[沖縄本島]]中南部に勃興した勢力が支配権を確立して版図を広げ、最盛期には[[奄美群島]]と[[沖縄諸島]]及び[[先島諸島]]までを勢力下においた。当初はムラ社会(シマ)の[[豪族]]であったが、[[三山時代]]を経て沖縄本島を統一する頃には王国の体裁を整えた。明の冊封体制に入り、一方で[[日本列島]]の中央政権にも外交使節を送るなど独立した国であったが、[[1609年]]の[[薩摩藩]]による[[琉球侵攻]]によって、外交及び[[貿易権]]に制限を加えられる(「[[掟十五条]]」)[[保護国]]となった。その一方、[[国交]]上は[[明|明国]]や[[清|清国]]と朝貢冊封関係を続けるなど一定の独自性を持ち、内政は薩摩藩による介入をさほど受けず<ref group="注">形式上は琉球国の領域とされるも直轄統治を受け事実上割譲された[[奄美群島]]を除く。また、薩摩藩による軍事行動を除き、琉球の人民の検束などは「掟十五条」に反するものであっても、代官でも無闇にできるものではなく、例えば貿易に関する不正があった場合も捜査、取り調べおよび検束は琉球王府に断りを入れてする必要があった。</ref>、1879年の琉球処分により日本の沖縄県とされるまでは、統治機構を備えた国家の体裁を保ち続けた。同国に属した事がある範囲の島々の総称として、[[琉球諸島]]ともいう
 
同国に属した事がある範囲の島々の総称として、[[琉球諸島]]ともいう。
 
王家の[[紋章]]は[[巴|左三巴紋]]で「左御紋(ひだりごもん、沖縄方言:フィジャイグムン)」と呼ばれた。
 
王家の[[紋章]]は[[巴|左三巴紋]]で「左御紋(ひだりごもん、沖縄方言:フィジャイグムン)」と呼ばれた。世界中で見られる巴文様であるが、[[家紋の一覧|紋]]としての使用は[[日本文化|日本文化圏]]<ref>本田惣一朗監修『日本の家紋大全』 [[梧桐書院]]、[[2008年]]</ref>のみである。
 
=== 地政 ===
勢力圏(最大版図)は、[[奄美大島]]、[[沖縄島|沖縄本島]]、[[宮古島]]および[[石垣島]]の他、多数の小さな離島の集合で、最盛期の総人口17万ほどの小さな王国であった。

しかし、[[日本]]の[[鎖国]]政策や隣接する大国[[明]]・[[清]]の[[海禁]]の間にあって、[[東シナ海]]の地の利を生かした[[中継貿易]]で大きな役割を果たした。

その交易範囲は[[東南アジア]]まで広がり、特に[[マラッカ王国]]<ref group="注">建国当時は[[マジャパヒト王国]]との交易があったことが知られているが、[[明]]のムスリム・[[鄭和]]の保護下で新興イスラム国家・[[マラッカ王国]]が急速に貿易の主導権を奪い、琉球はマラッカ王国と貿易するようになった。</ref>との深い結び付きが知られる。
 
琉球王国は明及びその領土を継承した清の[[冊封]]下に組み込まれていたが、[[1609年]]([[万暦]]37年・[[慶長]]14年)に日本の[[琉球侵攻|薩摩藩の侵攻]]を受けて以後は、薩摩藩と清への両属という体制([[中華帝国]]の明・清の元号と日本の[[朝廷]]の[[元号]]の両方を施行する国家体制)を取りながらも、独立した王国として存在し、日本や中国の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。
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=== 琉球 ===
「琉球」の表記は、『[[隋書]]』「卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 '''流求'''國」が初出である。同書によると、「[[607年]]([[大業]]3年・[[推古天皇]]15年)、[[隋]]の[[煬帝]]が「流求國」に遣使するが、言語が通ぜず1名を拉致して戻った。翌[[608年]](大業4年・[[推古天皇]]16年)再び遣使し慰撫するも流求は従わず『布甲(甲冑の一種)』を奪い戻る。この時、[[遣隋使]]として[[長安]]に滞在していた[[小野妹子]]らがその『布甲』を見て『此'''夷邪久國'''人所用也(此れはイヤク国の人が用いるものなり)』と言った。帝は遂に[[陳稜]]に命じ兵を発し流求に至らしめ、言語の通じる[[崑崙|崑崙人]]に慰諭させるも、なお従わず逆らったため之を攻め、宮室を焼き払い男女数千名を捕虜として戻った。」と記されている。同書は「流求國」の習俗を子細に記すが、その比定先として挙げられる台湾や周囲の先島諸島、沖縄諸島やルソン島などは、この時点ではいわゆる[[先史時代]]に当たり同定は難しい。なお、「夷邪久(イヤク)」は[[屋久島]]を指すとする説と、南島全般(すなわち[[種子島]]・屋久島より南方)を指すとする説とがある
 
翌[[608年]](大業4年・[[推古天皇]]16年)再び遣使し慰撫するも流求は従わず『布甲(甲冑の一種)』を奪い戻る。この時、[[遣隋使]]として[[長安]]に滞在していた[[小野妹子]]らがその『布甲』を見て
「琉球」に落ち着いたのは[[明]]代以降であり<ref>安里進・山里純一「古代史の舞台 琉球」 上原真人他編『古代史の舞台』<列島の古代史1>岩波書店 2006年 391頁</ref>、最も使用の多かった「流求」に[[冊封国]]の証として王偏を加えて「'''琉球'''」とされ、[[14世紀]]後半、本島に興った[[北山王国|山北]]・[[中山王国|中山]]・[[南山王国|山南]]の3国([[三山時代]])に対して明が命名したものであり、それぞれ琉球國山北王、琉球國中山王、琉球國山南王とされた。このうち中山が1429年までに北山、南山を滅ぼして琉球を統一した。これ以降、統一王国としての琉球王国(琉球國)が興る事になるが、国号と王号は琉球國中山王を承継し、これは幕末の琉球処分まで続いた。
 
『此'''夷邪久國'''人所用也(此れはイヤク国の人が用いるものなり)』
 
と言った。帝は遂に[[陳稜]]に命じ兵を発し流求に至らしめ、言語の通じる[[崑崙|崑崙人]]に慰諭させるも、なお従わず逆らったため之を攻め、宮室を焼き払い男女数千名を捕虜として戻った。」と記されている。
 
同書は「流求國」の習俗を子細に記すが、その比定先として挙げられる台湾や周囲の先島諸島、沖縄諸島やルソン島などは、この時点ではいわゆる[[先史時代]]に当たり同定は難しい。
 
なお、「夷邪久(イヤク)」は[[屋久島]]を指すとする説と、南島全般(すなわち[[種子島]]・屋久島より南方)を指すとする説とがある。
 
「琉球」に落ち着いたのは[[明]]代以降であり<ref>安里進・山里純一「古代史の舞台 琉球」 上原真人他編『古代史の舞台』<列島の古代史1>岩波書店 2006年 391頁</ref>、最も使用の多かった「流求」に[[冊封国]]の証として王偏を加えて「'''琉球'''」とされ、[[14世紀]]後半、本島に興った[[北山王国|山北]]・[[中山王国|中山]]・[[南山王国|山南]]の3国([[三山時代]])に対して明が命名したものであり、それぞれ琉球國山北王、琉球國中山王、琉球國山南王とされた。このうち中山が1429年までに北山、南山を滅ぼして琉球を統一した。これ以降、統一王国としての琉球王国(琉球國)が興る事になるが、国号と王号は琉球國中山王を承継し、これは幕末の琉球処分まで続いた。
 
このうち中山が1429年までに北山、南山を滅ぼして琉球を統一した。
 
これ以降、統一王国としての琉球王国(琉球國)が興る事になるが、国号と王号は琉球國中山王を承継し、これは幕末の琉球処分まで続いた。
 
なお、鎌倉時代にあたる[[1305年]]([[大徳 (元)|大徳]]9年・[[嘉元]]3年)の[[称名寺 (横浜市)|称名寺]]所蔵[[行基図]]、[[14世紀]]半ば作と見られる『[[行基図|日本扶桑国之図]]』には南島の領域として「'''龍及國'''」と記されており、これは[[三山時代|三山]]の[[冊封]]貿易開始よりも前である<!-- 明に琉球と命名される以前から外交的に「りゅうきゅう」を自称していた可能性が示唆されている 拡大解釈。大和朝廷が中国から伝え聞いて当て字をしていただけかも知れない。無出典 --><ref>{{Cite web|date=2018-06-15|url=http://www.yomiuri.co.jp/culture/20180615-OYT1T50074.html|title=最古級の日本全図、室町初期作か|publisher=読売新聞|accessdate=2018-06-15}}</ref>。
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一方で、「琉球」は隋が[[命名]]した他称であり、[[内政]]的には古くから自国を「おきなわ(歴史的仮名遣:お(う)きなは)」に近い音で呼称していたとする研究もある<ref>小玉正任『琉球と沖縄の名称の変遷』 琉球新報社 2007年</ref>。
 
「おきなわ」の呼称は、[[淡海三船]]が記した[[鑑真]]の伝記『唐大和上東征伝』([[779年]]・[[宝亀]]10年)の中で、鑑真らが島民にここは何処かとの問いに「'''阿児奈波'''(あこなは)」と答えたのが初出であり、少なくとも鑑真らが到着した[[753年]]([[天平勝宝]]5年)には住民らが自国を「おきなわ」のように呼んでいたことが分かる。

また「[[おもろさうし]]」には[[平仮名]]の「おきなわ」という名の[[ノロ|高級神女]]名が確認され、現在も那覇市安里に「[[安里#浮縄嶽|浮縄御嶽]](ウチナーウタキ)別名:オキナワノ嶽」という[[御嶽 (沖縄)|御嶽]]が現存し、県名の由来とされている<ref>{{Cite web|title=浮縄の嶽(浮縄御嶽・オキナワノ嶽) {{!}} 那覇市観光資源データベース|url=https://www.naha-contentsdb.jp/spot/549|website=那覇市観光情報|date=2018-06-26|accessdate=2019-04-03|language=ja}}</ref>。
 
その他にも国内外の史料に「浮縄(うきなわ)」、「悪鬼納(あきなわ)」、「倭急拿(うちなー)」、「屋其惹(うちな)」といった表記が散見される。なお、現在の「'''沖縄'''」という漢字表記はいわゆる[[当て字]]であり、[[新井白石]]の『南島誌』([[1719年]]・[[享保]]4年)が初出で、長門本『[[平家物語]]』に出てくる「おきなは」に「沖縄」の字を当てて作ったと言われている。
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=== 「琉球」が指す範囲の変遷 ===
『隋書』における「流求」は福建省の東海上に位置する一介の島嶼としている。隋書に続く時代の『[[北史]]』、『[[通典]]』、『諸蕃志』においては『隋書』の記述を踏襲し、『[[太平寰宇記]]』([[宋 (王朝)|宋]]代の地理書)においても内容に大差はなかった。

[[元 (王朝)|元]]代に完成した『[[文献通考]]』においては、「琉球」は[[台湾]]と[[沖縄県]]周辺を混同して指す記述となっている。
 
その後[[13世紀]]まで、北から[[奄美群島]]・[[沖縄諸島]]・[[先島諸島]]・[[台湾]]のいずれの地域も小勢力の割拠状態が続き、日本の役所が一時期置かれた奄美群島([[喜界島]])以外は、[[中国大陸]]や[[日本列島]]の中央政権からの認識が薄い状態であった。[[14世紀]]、沖縄本島中部を根拠地とする[[中山王国|中山王]]が初めて明の皇帝に[[朝貢]]し、[[冊封体制|冊封]]に下ったことで認識が高まり、沖縄地方を「大琉球」、台湾を「小琉球」とする区分が生まれた。その後、「琉球」は琉球王国の勢力圏を指す地域名称として定着していく。
 
近代に入って「琉球(流求)」の語が指す地理的領域の考察が進んだ。[[1874年]](明治6年)にサン・デニーが『文献通考』の一部を翻訳し、その琉球条により流求は台湾であるとする説を発表した。

[[1895年]](明治28年)には[[グスタフ・シュレーゲル]]が、[[元 (王朝)|元]]以前の「琉球」は台湾のことを指し、[[明]]以降は沖縄県周辺のことを指すようになったとする説を発表した。

[[1897年]](明治30年)、[[ルートヴィヒ・リース]](当時、[[帝国大学]]文科大学(現[[東京大学]])史学科の教授)は著書『台湾島史』(吉国藤吉訳、[[1898年]])において、「流求」は台湾を指すとした。
 
== 民族 ==
{{See also|琉球民族|日琉同祖論}}
琉球王国の[[正史]]『[[中山世鑑]]』や『[[おもろさうし]]』などでは、[[12世紀]]に[[源為朝]](鎮西八郎)が現在の[[沖縄県]]の地に逃れ、その子が琉球最初の王統の始祖・[[舜天]]になったとされる。

真偽は不明だが、[[第二尚氏]]2代王の[[尚真王|尚真]]は[[1522年]]([[嘉靖]]元年・[[大永]]2年)に建立した「石門之東之碑文」に漢文で「尊敦(舜天の神号)から20代目の王」<ref>[https://www.library.pref.okinawa.jp/item/index-1104050025_1001998911.html <nowiki>国王頌徳碑(石門之東之碑文) [拓本]</nowiki>]</ref>と彫らせ、続く3代王の[[尚清王|尚清]]も[[1543年]](嘉靖22年・[[天文 (元号)|天文]]12年)に建立させた「かたのはなの碑」の表碑文に[[和文]]で「大りうきう國中山王尚清ハそんとんよりこのかた二十一代の王の御くらひをつきめしよわちへ」と彫らせ、裏碑文に同様の内容を漢文で彫らせている<ref>矢野美沙子、「[https://hdl.handle.net/10114/6432 為朝伝説と中山王統]」『沖縄文化研究』 2010年 35巻 p.1-48, {{ncid|AN0003370X}}, {{naid|120003142293}}, 法政大学沖縄文化研究所, {{ISSN|1349-4015}}</ref>。

舜天の始祖説は琉球の正史として扱われている。これら話がのちに[[曲亭馬琴]]の『[[椿説弓張月]]』を産み、さらに[[日琉同祖論]]へとつながったとも言える。

16世紀前半には「鶴翁字銘井序」等に起源が見られた[[日琉同祖論]]と関連づけて語られる事が多く、[[1922年]]([[大正]]11年)には「為朝上陸の碑」が建てられ、表碑文に「上陸の碑」と刻まれ、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した[[東郷平八郎]]の名が刻まれている。
 
また[[天孫氏]]裔を自称した初代[[中山王国|中山王]]の[[察度]]は[[1368年]]([[洪武]]元年・[[貞治]]7年)に[[真言宗]]の勅願寺(後に[[護国寺 (那覇市)|護国寺]])の創建と[[熊野信仰]]の[[波上宮]]の創建を行っている。
 
『中山世鑑』を編纂した[[羽地朝秀|羽地王子朝秀]]は、摂政就任後の[[1673年]] ([[康熙]]12年・[[延宝]]元年)3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている<ref>真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為<sub>レ</sub>渡儀疑無<sub>二</sub>御座<sub>一</sub>候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖<sub>レ</sub>然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為<sub>レ</sub>絶故也」。</ref>。

沖縄学の研究者の[[伊波普猷]]は、琉球の古語や方言に、[[中国文化]]の影響が見られない[[7世紀]]以前の日本語の面影が多く残っているため、中国文化の流入以前に移住したと見ている<ref>伊波普猷『[http://books.google.co.jp/books?id=8qc_cPrIDLIC&printsec=frontcover 琉球古今記]』 刀江書院 1926年</ref>。
 
 
[[札幌大学]]教授の[[高宮広士]]が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降であるため、[[10世紀]]から[[12世紀]]頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘する<ref>朝日新聞 2010年4月16日</ref>ように、近年の[[考古学]]などの研究も含めて[[南西諸島]]の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であるとされている。
 
[[札幌大学]]教授の[[高宮広士]]が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降であるため、[[10世紀]]から[[12世紀]]頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘する<ref>朝日新聞 2010年4月16日</ref>ように、近年の[[考古学]]などの研究も含めて[[南西諸島]]の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であるとされている。[[遺伝子]]研究では、琉球列島([[沖縄諸島]]、[[宮古列島]]、[[八重山列島]])の集団は、遺伝的に[[中国本土]]や[[台湾]]の集団との直接的なつながりはなく、日本本土と同一の父系を持つという研究結果や<ref>{{cite news
| title = 現代沖縄人DNAの遺伝系統「日本本土に近い」
| newspaper = 琉球新報
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=== 16世紀の琉球人 ===
[[16世紀]]頃の琉球人を知る手がかりとしてよく知られているのは、[[ポルトガル人]]旅行家のトメ・ピレスが[[1515年]]([[正徳 (明)|正徳]]10年・[[永正]]12年)に記したとされる「'''東方諸国記'''」の第四部「シナからボルネオに至る諸国」にある、「レケオス(Lequeos)は元々ゴーレス(Guores)であり、正直かつ勇猛で交易相手として信頼に足る。彼らは明に渡航してマラッカに来た品々を持ち帰る。そしてジャンポン(Jampon)に赴いて金や銅と交換するという。また、彼らは[[偶像崇拝]]者である。彼らは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い」と記した<ref>[http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/column/page012.html トメ・ピレス『東方諸国記』を読む]篠原陽一「海上交易の世界と歴史」- 『東方諸国記』(生田滋他訳注、大航海時代叢書5、岩波書店、1966) はトメ・ピレス著"Suma Oriental que trata do Mar Roxo até aos Chins"(紅海からシナまでを取り扱うスマ・オリエンタル)の日本語訳</ref>。しかし、現在まで続く沖縄の土着信仰は無形の[[アニミズム]]、[[祖霊信仰|祖霊崇拝]]、[[おなり神]]信仰であり、当時すでに[[首里]]近郊には仏教寺院が多くあったため、明の滞在歴のあるピレスがそれらを指して「偶像崇拝者」と捉えるのは不自然であるとし、レケオスは琉球ではないとの指摘もある。
 
彼らは明に渡航してマラッカに来た品々を持ち帰る。そしてジャンポン(Jampon)に赴いて金や銅と交換するという。また、彼らは[[偶像崇拝]]者である。彼らは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い」と記した<ref>[http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/column/page012.html トメ・ピレス『東方諸国記』を読む]篠原陽一「海上交易の世界と歴史」- 『東方諸国記』(生田滋他訳注、大航海時代叢書5、岩波書店、1966) はトメ・ピレス著"Suma Oriental que trata do Mar Roxo até aos Chins"(紅海からシナまでを取り扱うスマ・オリエンタル)の日本語訳</ref>。
また、ピレスと同時期にマラッカの植民地征服に成功したポルトガル人総督の[[アフォンソ・デ・アルブケルケ]]の叙述伝である「'''アルブケルケ実録(アルブケルケ伝)'''」には「ゴーレス(Gores)の本国はレキオス(Lequios)である、彼らは色白で正直であり、長衣をまとい、腰に細身の長剣と42cm程度の短剣を常に佩用していて、マラッカでは彼らの勇猛さは恐れられている。また彼らは交易が終わればすぐに出発し、マラッカに留まることを好まない。」<ref>{{Cite journal|和書|author=中島楽章 |title=ゴーレス再考 |url=https://doi.org/10.15017/26231 |journal=史淵 |issn=0386-9326 |publisher=九州大学大学院人文科学研究院 |year=2013 |month=mar |volume=150 |pages=69-116 |naid=120005227295 |doi=10.15017/26231}}</ref>と記されており、長衣に大小の[[打刀]]を佩用する琉球人は[[室町時代|室町]][[武士]]と同様の出で立ちであり、[[日本文化|日本文化圏]]に帰属する傍証だとする研究者や、ゴーレスはレキオス(琉球)交易船に乗り込んでいた本土日本人であるとする研究者もいる。いずれの内容も琉球が東アジアにおいて、中継貿易に長けていたということに変わりはない。なお[[日宋貿易]]時代からの貿易海商や船長の事を「綱首(和読:ごうしゅ)」と言う。
 
しかし、現在まで続く沖縄の土着信仰は無形の[[アニミズム]]、[[祖霊信仰|祖霊崇拝]]、[[おなり神]]信仰であり、当時すでに[[首里]]近郊には仏教寺院が多くあったため、明の滞在歴のあるピレスがそれらを指して「偶像崇拝者」と捉えるのは不自然であるとし、レケオスは琉球ではないとの指摘もある。
一方で、薩摩侵攻時の王府[[三司官]]であった[[謝名利山]]や[[羽地朝秀|羽地王子朝秀]]の改革を引き継いだ[[蔡温]]らは、[[1392年]]([[洪武]]25年・[[明徳]]3年)に[[明]]の[[洪武帝]]より下賜され琉球に入籍した閩人<ref group="注">(福建人ならびに[[福建省]]の[[客家]])</ref>・[[久米三十六姓]]の末裔であり、琉球王朝の高官や学者、政治家を多く輩出している。その多くは久米士族として琉球人と同化していった。
 
 
また、ピレスと同時期にマラッカの植民地征服に成功したポルトガル人総督の[[アフォンソ・デ・アルブケルケ]]の叙述伝である「'''アルブケルケ実録(アルブケルケ伝)'''」には「ゴーレス(Gores)の本国はレキオス(Lequios)である、彼らは色白で正直であり、長衣をまとい、腰に細身の長剣と42cm程度の短剣を常に佩用していて、マラッカでは彼らの勇猛さは恐れられている。
 
また、ピレスと同時期にマラッカの植民地征服に成功したポルトガル人総督の[[アフォンソ・デ・アルブケルケ]]の叙述伝である「'''アルブケルケ実録(アルブケルケ伝)'''」には「ゴーレス(Gores)の本国はレキオス(Lequios)である、彼らは色白で正直であり、長衣をまとい、腰に細身の長剣と42cm程度の短剣を常に佩用していて、マラッカでは彼らの勇猛さは恐れられている。また彼らは交易が終わればすぐに出発し、マラッカに留まることを好まない。」<ref>{{Cite journal|和書|author=中島楽章 |title=ゴーレス再考 |url=https://doi.org/10.15017/26231 |journal=史淵 |issn=0386-9326 |publisher=九州大学大学院人文科学研究院 |year=2013 |month=mar |volume=150 |pages=69-116 |naid=120005227295 |doi=10.15017/26231}}</ref>と記されており、長衣に大小の[[打刀]]を佩用する琉球人は[[室町時代|室町]][[武士]]と同様の出で立ちであり、[[日本文化|日本文化圏]]に帰属する傍証だとする研究者や、ゴーレスはレキオス(琉球)交易船に乗り込んでいた本土日本人であるとする研究者もいる。いずれの内容も琉球が東アジアにおいて、中継貿易に長けていたということに変わりはない。なお[[日宋貿易]]時代からの貿易海商や船長の事を「綱首(和読:ごうしゅ)」と言う
 
いずれの内容も琉球が東アジアにおいて、中継貿易に長けていたということに変わりはない。なお[[日宋貿易]]時代からの貿易海商や船長の事を「綱首(和読:ごうしゅ)」と言う。
 
一方で、薩摩侵攻時の王府[[三司官]]であった[[謝名利山]]や[[羽地朝秀|羽地王子朝秀]]の改革を引き継いだ[[蔡温]]らは、[[1392年]]([[洪武]]25年・[[明徳]]3年)に[[明]]の[[洪武帝]]より下賜され琉球に入籍した閩人<ref group="注">(福建人ならびに[[福建省]]の[[客家]])</ref>・[[久米三十六姓]]の末裔であり、琉球王朝の高官や学者、政治家を多く輩出している。その多くは久米士族として琉球人と同化していった
 
その多くは久米士族として琉球人と同化していった。
 
== 歴史 ==
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[[1429年]]([[宣徳]]4年・[[永享]]元年)、[[第一尚氏|第一尚氏王統]]の[[尚巴志王]]の三山統一によって琉球王国が成立したと考えられている。
 
第一尚氏は大和(日本本土)や中国(明)・朝鮮半島(李朝)はもとより[[ジャワ島|ジャワ]]やマラッカなどとの交易を積極的に拡大した。第一尚氏王統、第6代の[[尚泰久王]]は、[[万国津梁の鐘]]を鋳造せしめ、海洋国家としての繁栄を謳歌した。
 
第一尚氏王統、第6代の[[尚泰久王]]は、[[万国津梁の鐘]]を鋳造せしめ、海洋国家としての繁栄を謳歌した。
しかし、一方で第一尚氏の権力基盤は不安定であった。統一後も依然として地方の諸[[按司]]や豪族の勢力が強く、王府が有効な[[中央集権]]化政策を実施できなかった。尚泰久自身、王位継承権争い([[志魯・布里の乱]])の両者が滅んだため即位したのであり、その治世の間にも[[阿麻和利]]・[[護佐丸]]の乱が起き、これを平定している。これは三山統一後も豪族の力が非常に強かったことを示している。後継の[[尚徳王]]は[[喜界島]]親征など膨張政策を強行した事により、王統としては63年間で瓦解した。尚泰久が抜擢した重臣・[[尚円王|金丸(尚円王)]]のクーデタによるものである。
 
しかし、一方で第一尚氏の権力基盤は不安定であった。統一後も依然として地方の諸[[按司]]や豪族の勢力が強く、王府が有効な[[中央集権]]化政策を実施できなかった。尚泰久自身、王位継承権争い([[志魯・布里の乱]])の両者が滅んだため即位したのであり、その治世の間にも[[阿麻和利]]・[[護佐丸]]の乱が起き、これを平定している。これは三山統一後も豪族の力が非常に強かったことを示している。後継の[[尚徳王]]は[[喜界島]]親征など膨張政策を強行した事により、王統としては63年間で瓦解した。尚泰久が抜擢した重臣・[[尚円王|金丸(尚円王)]]のクーデタによるものである。
 
これは三山統一後も豪族の力が非常に強かったことを示している。後継の[[尚徳王]]は[[喜界島]]親征など膨張政策を強行した事により、王統としては63年間で瓦解した。尚泰久が抜擢した重臣・[[尚円王|金丸(尚円王)]]のクーデタによるものである。
 
=== 第二尚氏王統 ===
[[1469年]]([[成化]]5年・[[文明 (日本)|文明]]元年)、[[尚泰久王]]の重臣であった[[尚円王|金丸(尚円王)]]が、[[尚徳王]]の[[薨去]]後、王位を継承し、[[第二尚氏|第二尚氏王統]]が成立した。王位継承に関しては、正史では重臣たちの推挙によって即位したと記されているが、尚徳王の世子は殺害されており、[[クーデター]]による即位であったと考えられている。
 
その後、第二尚氏王統は、[[尚真王]]の時代に地方の諸[[按司]]を首里に移住・集住させ、中央集権化に成功した。彼の治世において、対外的には[[1500年]]([[弘治 (明)|弘治]]13年・[[明応]]9年)には[[石垣島]]に侵攻して[[オヤケアカハチの乱|オヤケアカハチの乱(八重山征服戦争)]]を制し、さらに[[1522年]]([[嘉靖]]元年・[[大永]]2年)には[[与那国島]]に侵攻して[[鬼虎|鬼虎の乱(与那国島征服戦争)]]を鎮圧、[[先島諸島]]全域を支配下に治めた。[[1571年]]([[隆慶 (明)|隆慶]]5年・[[元亀]]2年)には[[奄美群島]]北部まで征服し、最大[[版図]]を築いた。
 
彼の治世において、対外的には[[1500年]]([[弘治 (明)|弘治]]13年・[[明応]]9年)には[[石垣島]]に侵攻して[[オヤケアカハチの乱|オヤケアカハチの乱(八重山征服戦争)]]を制し、さらに[[1522年]]([[嘉靖]]元年・[[大永]]2年)には[[与那国島]]に侵攻して[[鬼虎|鬼虎の乱(与那国島征服戦争)]]を鎮圧、[[先島諸島]]全域を支配下に治めた。[[1571年]]([[隆慶 (明)|隆慶]]5年・[[元亀]]2年)には[[奄美群島]]北部まで征服し、最大[[版図]]を築いた。
琉球王は、明国に対しては[[冊封国]]として、[[皇帝 (中国)|中国皇帝]]の臣下となることを強いられたが、一方で、国内では、時に琉球王を[[天子]]・[[皇帝]]になぞらえるなど、独自の天下観を見せた可能性がある<ref group=注>このような姿勢は、漢族や非漢族による、中国地域に成立したいわゆる『中原王朝』に(中原王朝から見て)朝貢していた時代の日本、越南、朝鮮、その他諸国に広くみられる態度である。前近代においては、自国および他国の国家の元首の格付けを、対象とする地域や相手によって、都合よく操作することはよくあることである。</ref>。その例として、『[[朝鮮王朝実録]]』には、[[1545年]]([[嘉靖]]24年・[[天文 (元号)|天文]]14年)に朝鮮からの琉球への漂着民が残した証言として、「王は紅錦の衣を着て、平天冠をかぶり、一人の僧侶と対面して紫禁城遥拝の儀礼を行っている」(朝鮮明宗実録)という記述がある。
 
琉球王は、明国に対しては[[冊封国]]として、[[皇帝 (中国)|中国皇帝]]の臣下となることを強いられたが、一方で、国内では、時に琉球王を[[天子]]・[[皇帝]]になぞらえるなど、独自の天下観を見せた可能性がある<ref group="">このような姿勢は、漢族や非漢族による、中国地域に成立したいわゆる『中原王朝』に(中原王朝から見て)朝貢していた時代の日本、越南、朝鮮、その他諸国に広くみられる態度である。前近代においては、自国および他国の国家の元首の格付けを、対象とする地域や相手によって、都合よく操作することはよくあることである。</ref>。その例として、『[[朝鮮王朝実録]]』には、[[1545年]]([[嘉靖]]24年・[[天文 (元号)|天文]]14年)に朝鮮からの琉球への漂着民が残した証言として、「王は紅錦の衣を着て、平天冠をかぶり、一人の僧侶と対面して紫禁城遥拝の儀礼を行っている」(朝鮮明宗実録)という記述がある
 
その例として、『[[朝鮮王朝実録]]』には、[[1545年]]([[嘉靖]]24年・[[天文 (元号)|天文]]14年)に朝鮮からの琉球への漂着民が残した証言として、「王は紅錦の衣を着て、平天冠をかぶり、一人の僧侶と対面して紫禁城遥拝の儀礼を行っている」(朝鮮明宗実録)という記述がある。
 
=== 薩摩による琉球侵攻 ===
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[[16世紀]]後半、時の大和天下人・[[豊臣秀吉]]が[[明]]とその進路にある[[李氏朝鮮]]を征服しようとし、琉球王国に助勢するよう薩摩藩を通じて直接これを恫喝したが、王府の財政事情や明の[[冊封]]国である事から、要求の兵糧米の半分を差し出すに留まり、残りの兵糧と軍役は薩摩藩が負担した。
 
[[1609年]]([[万暦]]37年・[[慶長]]14年)、島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りや、徳川への[[謝恩使]]の再三の要求に最後通牒を突き付けられてもなお応じず黙殺したため、家康・秀忠の許しにより、薩摩藩は琉球侵攻に乗り出した。

[[島津氏]]は3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発、3月8日に[[奄美大島]]に進軍。3月26日には[[沖縄本島]]に上陸し、4月1日には[[首里城]]にまで進軍した。島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて抗したが敵せず敗れた。

4月5日には[[尚寧王]]が和睦を申し入れて首里城は開城した。
 
これ以降、王国代々の王<ref group="注">実際には、後述の[[中城王子]](王世子)の薩摩藩への上国時に提出させられ、そのまま国王となる事による。直接提出を命じられた国王は尚寧王だけである。</ref>と三司官は「琉球は古来島津氏の[[付庸国|附庸国]]である」と述べた[[起請文]]の薩摩藩への提出を命じられ、「掟十五条」を認めさせられるなど、琉球王国は薩摩藩の[[付庸国]]となり、同藩の間接支配下に入る事になる。薩摩藩への[[租税|貢納]]、[[中城王子]](王世子)の藩への上国を義務付けられ、謝恩使・慶賀使の[[江戸上り]]で幕府に使節を派遣した。
 
その後、明に代わって中国大陸を統治するようになった[[満州民族|満州族]]の[[王朝]]である[[清]]の冊封下でもあり続け、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は国としての体裁を保ち、独自の文化を維持した。

琉球が征服してから年月の浅かった[[奄美群島]]は薩摩藩直轄地となり王府から分離されたが、表面上は琉球王国の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため引き続き王府の役人が派遣されていた。
 
=== 黒船来航 ===
[[1853年]]([[咸豊]]2年・[[嘉永]]5年)5月に[[黒船来航#琉球来航|黒船が那覇に来航]]し、[[アメリカ海軍]]の[[マシュー・ペリー]][[提督]]が[[首里城]]に入って開港を求めた<ref>『琉球王国評定所文書』</ref>。

黒船は翌[[1854年]]([[咸豊]]3年、[[嘉永]]6年)にも来航し、両国は[[琉米修好条約]]を締結して[[那覇市|那覇]]が開港した。ペリーは、琉球が武力で抵抗した場合には[[占領]]することを[[ミラード・フィルモア]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]から許可されていた。
 
翌年の[[1855年]]([[咸豊]]5年・[[安政]]2年)11月には[[琉仏修好条約]]が、[[1859年]]([[咸豊]]9年・[[安政]]6年6月7日)7月には[[琉蘭修好条約]]が締結された。
 
=== 琉球処分 ===
[[1871年]]([[同治]]9年・[[明治]]3年)、[[明治政府]]は[[廃藩置県]]によって琉球王国の領土を[[鹿児島県]]の管轄としたが、[[1872年]]([[同治]]10年・[[明治]]4年)には[[琉球藩]]を設置し、琉球国王[[尚泰]]を琉球藩王に陞列して[[侯爵]]とした<ref>[[s:琉球國王尚泰ヲ藩王トナシ華族ニ陞列スルノ詔|琉球國王尚泰ヲ藩王トナシ華族ニ陞列スルノ詔]]</ref>。

明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三にわたり迫ったが、尚泰侯爵は従わなかった。

そのため[[1879年]]([[光緒]]4年・[[明治]]12年)3月、処分官[[松田道之]]が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉し、3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、4月4日に琉球藩の廃止および[[沖縄県]]の設置がなされ<ref>[http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m12_1879_01.html 琉球藩ヲ廃シ沖縄県ヲ被置ノ件]([[国立公文書館]])</ref>、沖縄[[県令]]として前[[肥前国|肥前]]鹿島藩([[佐賀藩]]の支藩)主の[[鍋島直彬]]が赴任するに至り、王統の支配は終わった(琉球王国の崩壊)。地位を失った琉球の王族は日本の[[華族]]とされた。

しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど問題は尾を引いた。[[外交交渉]]の過程で、清国への先島分島問題が提案され、元[[アメリカ合衆国大統領]][[ユリシーズ・グラント|グラント]]の熱心な[[調停]]もあって調印の段階まで進展したが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は頓挫、のちの[[日清戦争]]における日本側の完勝をもって琉球全域に対する日本の[[領有権]]が確定した。
 
== 政治 ==
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==== 申口方 ====
申口方(もうしぐちほう)は平等方、泊地頭、双紙庫理、鎖之側の四官庁からなる。平等方を除いて、それぞれ官庁名であると同時にその長官名を指した。各長官の下には次官級の吟味役か日帳主取が置かれた。

申口方の長官は親雲上(正三品)が、その下の次官級は親雲上(正四品)がその任に就いた。従って、申口方の長官は物奉行よりも品位が下に位置する。長官は漢訳で耳目官と言った。
 
;平等方
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== 文化 ==
{{出典の明記| date = 2021年3月| section = 1}}
琉球王国は、[[律令制]]を参考にした政治や、士族は和風の[[実名]]の他に中国風の名前も持つなど、最大の交易相手だった中国の影響を強く受けた。

一方で書き言葉は主に漢字かな交りの[[文語体|和文]]を用い、[[寺院]]や[[神社]]を建立するなど日本文化への帰属意識もあり、羽地王子朝秀による改革により王朝の支配に[[武家政権]]の要素が取り入れられた。琉球は、日中双方の文化や制度を受け入れつつ、独自の文化を育んでいた。
 
=== 文学 ===
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==== 琉歌 ====
[[17世紀]]になると、短詩型の叙情歌謡である[[琉歌]]が盛んになった。琉歌には様々な形式があるが、一般的には平仮名読みの8・8・8・6の30音からなる形がよく知られている。琉歌の名人には[[惣慶忠義]]([[1686年]] - [[1749年]])、[[平敷屋朝敏]]([[1700年]] - [[1747年]])、[[玉城親方朝薫]]([[1684年]] - [[1734年]])、[[与那原親方良矩]]([[1718年]] - [[1797年]])、[[本部按司朝救]]([[1741年]] - [[1814年]])、[[東風平親方朝衛]](1701年 - 1766年)等が古来より有名である。

これらの歌人は、[[和歌]]・和文にも精通していた。女流歌人では、[[吉屋チルー]]([[1650年]] - [[1668年]])と[[恩納なべ]]([[尚穆王]]時代)が双璧としてよく知られている。
 
==== 和歌 ====
琉球における和歌の起源は史料が乏しいため判然としない。
琉球における和歌の起源は史料が乏しいため判然としない。[[1585年]]([[万暦]]13年・[[天正]]13年)、安谷屋親雲上宗春が[[豊臣秀吉]]と大坂で謁見した際、[[天王寺]]で開催された歌会に参加した記録があり、この頃にはすでに和歌が詠まれていたのではないかという説もある。一般には、識名親方盛命([[1651年]] - [[1715年]])が琉球における和歌の祖と言われている。[[元禄]]以前の和歌の名人には、他に屋良親雲上宣易([[1658年]] - [[1729年]])、池城親方安倚([[1669年]] - [[1710年]])、安仁屋親雲上賢孫([[1676年]] - [[1743年]])、石嶺親雲上真忍([[1678年]] - [[1727年]])、国頭親方朝斉([[1686年]] - [[1747年]])、惣慶忠義らが著名である。
 
琉球における和歌の起源は史料が乏しいため判然としない。[[1585年]]([[万暦]]13年・[[天正]]13年)、安谷屋親雲上宗春が[[豊臣秀吉]]と大坂で謁見した際、[[天王寺]]で開催された歌会に参加した記録があり、この頃にはすでに和歌が詠まれていたのではないかという説もある。一般には、識名親方盛命([[1651年]] - [[1715年]])が琉球における和歌の祖と言われている。[[元禄]]以前の和歌の名人には、他に屋良親雲上宣易([[1658年]] - [[1729年]])、池城親方安倚([[1669年]] - [[1710年]])、安仁屋親雲上賢孫([[1676年]] - [[1743年]])、石嶺親雲上真忍([[1678年]] - [[1727年]])、国頭親方朝斉([[1686年]] - [[1747年]])、惣慶忠義らが著名である。
 
[[元禄]]以前の和歌の名人には、他に屋良親雲上宣易([[1658年]] - [[1729年]])、池城親方安倚([[1669年]] - [[1710年]])、安仁屋親雲上賢孫([[1676年]] - [[1743年]])、石嶺親雲上真忍([[1678年]] - [[1727年]])、国頭親方朝斉([[1686年]] - [[1747年]])、惣慶忠義らが著名である。
 
 
元禄以降、和歌が盛んになり多数の名人を輩出するようになった。[[平敷屋朝敏]]、栢堂和尚([[1653年]] - ?)、東風平親方朝衛、本部按司朝救、読谷山王子朝憲([[1745年]] - [[1811年]])、[[宜野湾王子朝祥]]([[1765年]] - [[1827年]])、浦添按司朝英([[1762年]] - [[1789年]])、世名城親雲上盛郁([[1774年]] - [[1833年]])、大工廻親雲上安詳([[1791年]] - [[1851年]])、義村按司朝顕([[1805年]] - [[1836年]])らが著名である<ref>真境名安興『真境名安興全集』第一巻、392-394頁参照。</ref>。
 
元禄以降、和歌が盛んになり多数の名人を輩出するようになった。[[平敷屋朝敏]]、栢堂和尚([[1653年]] - ?)、東風平親方朝衛、本部按司朝救、読谷山王子朝憲([[1745年]] - [[1811年]])、[[宜野湾王子朝祥]]([[1765年]] - [[1827年]])、浦添按司朝英([[1762年]] - [[1789年]])、世名城親雲上盛郁([[1774年]] - [[1833年]])、大工廻親雲上安詳([[1791年]] - [[1851年]])、義村按司朝顕([[1805年]] - [[1836年]])らが著名である<ref>真境名安興『真境名安興全集』第一巻、392-394頁参照。</ref>。また、[[宜湾朝保]]が和歌集『沖縄集』(1870年)に載せた36人の歌人が'''[[沖縄三十六歌仙]]'''としてつとに有名である。
 
==== 漢詩 ====
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=== 琉球舞踊 ===
{{main|琉球舞踊}}
[[琉球舞踊]]は、中国からの使節を歓迎するために舞う宮廷舞踊「[[御冠船踊り]]」がその起源である。御冠船踊りはすべて貴士族の子弟のみによって踊られた。宮廷舞踊のことを明治以降の'''琉舞'''と区別する意味で、古典舞踊とも言う。

古典舞踊には、老人踊り、若衆踊り、二才踊り、女踊り、打組み踊りなどがある。
 
[[廃藩置県]]によって琉球国が消滅し、士族階層が没落すると、古典舞踊を元にして雑踊りと呼ばれる民間舞踊が誕生した。昭和以降には、現代感覚を導入した創作舞踊というジャンルも出現し、これも琉球舞踊に含まれる。
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染織の技法である[[紅型]]、[[漆器]]には[[琉球漆器]]、[[陶磁器]]には[[壺屋焼]]などがある。
====陶芸====
琉球王国における陶芸は、南方貿易が盛んであった頃、[[泡盛]]の容器として輸入された[[南蛮甕]]の製法に学んだことに始まる。ここから[[古我地焼]]、[[知花焼]]が生まれる。

[[1617年]]([[万暦]]45年・[[元和 (日本)|元和]]3年)には[[薩摩藩]]から[[朝鮮]]の陶工、[[張献功]]ら三人が招かれ本格的な技術が伝わる。

[[1670年]]([[康熙]]9年・[[寛文]]10年)には[[平田典通]]が[[清]]に渡り、[[釉薬]]の技術を伝える。

また、[[18世紀]]には[[仲村渠致元]]が[[八重山]]に陶器製法を伝え、また[[薩摩藩]]で技術を習得し[[白焼陶器]]を広めた。[[1682年]]([[康熙]]21年・[[天和 (日本)|天和]]2年)、古我知、知花、湧田の3箇所の窯が[[壺屋]]に統合された。<ref>新城俊昭『教養講座 琉球・沖縄史』編集工房 東洋企画</ref>
 
=== 武芸 ===
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===食文化===
{{See also|琉球料理}}
王族や上級士族が居住した首里では洗練された宮廷料理が作られた。その料理の味わいの表現の一つとして「あふぁい(淡い)」というものがある。一般的には「薄味」と捉えられているようだが「感謝の念から、素材そのものの味を味わい尽くす」ために余計な「味付け」をしない状態であると考えられる。
 
一般的には「薄味」と捉えられているようだが「感謝の念から、素材そのものの味を味わい尽くす」ために余計な「味付け」をしない状態であると考えられる。
王族・上級士族は別として、無禄の士族を含む平民は重税によって苦しい生活を強いられた。貴重な動物性タンパクである「[[豚]]」は一般庶民の家で飼われてはいたものの、日常的な食事に供されるものではなく、比較的裕福な家庭でさえ盆や正月といった行事の時にしか口にすることはできない貴重な食べ物だった。そういった時代背景によって庶民が生きるために、ありとあらゆるものを食べるために工夫することを余儀なくされ「豚はひづめと鳴き声以外全て食べる」と形容されるようなところにまで行き着き、ひもじさを緩和するための味付けとして「味くーたー」という濃い塩味が庶民の間で流行した。
 
王族・上級士族は別として、無禄の士族を含む平民は重税によって苦しい生活を強いられた。貴重な動物性タンパクである「[[豚]]」は一般庶民の家で飼われてはいたものの、日常的な食事に供されるものではなく、比較的裕福な家庭でさえ盆や正月といった行事の時にしか口にすることはできない貴重な食べ物だった。そういった時代背景によって庶民が生きるために、ありとあらゆるものを食べるために工夫することを余儀なくされ「豚はひづめと鳴き声以外全て食べる」と形容されるようなところにまで行き着き、ひもじさを緩和するための味付けとして「味くーたー」という濃い塩味が庶民の間で流行した。
 
そういった時代背景によって庶民が生きるために、ありとあらゆるものを食べるために工夫することを余儀なくされ「豚はひづめと鳴き声以外全て食べる」と形容されるようなところにまで行き着き、ひもじさを緩和するための味付けとして「味くーたー」という濃い塩味が庶民の間で流行した。
 
== 経済 ==
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[[ファイル:Shinkosen.jpg|thumb|250px|中国への進貢船]]
 
琉球は[[明]]に冊封されることで、[[倭寇]]の取締りを尻目に、[[海禁]]政策を行っていた中国とアジア諸国の間での東シナ海中継貿易の中心の1つを担うようになり、経済基盤をつくり上げた。貿易範囲は[[日本]]の他、主に[[明|中国]]・[[李氏朝鮮|朝鮮]]や[[ベトナム]]、[[タイ王国|タイ]]など[[東南アジア]]諸国であった。
 
貿易範囲は[[日本]]の他、主に[[明|中国]]・[[李氏朝鮮|朝鮮]]や[[ベトナム]]、[[タイ王国|タイ]]など[[東南アジア]]諸国であった。
しかし[[16世紀]]に入り、[[1567年]]([[隆慶 (明)|隆慶]]元年・[[永禄]]10年)、明が倭寇対策として海禁の緩和(中国人とアジア諸国との直接交易を認める。ただし日本のみ除外。)を行ったことで大打撃を受ける。[[大航海時代]]を迎えた[[ヨーロッパ]]諸国が東南アジアに貿易拠点を築き[[東シナ海]]にも進出すると、[[ポルトガル]]が[[マラッカ]]を抑えることで東南アジアの市場を失い、日本との中継貿易も[[マカオ]]のポルトガル人が手がけるようになるなど、ヨーロッパ人が[[東アジア]]諸国と直接貿易をするようになった。更に[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に戦費調達のため[[鉱山]]開発が進んだ日本が、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初頭にかけて、豊富な[[銀]]を持って東南アジア領域に進出し、多数の[[日本人町]]を形成するほど貿易の中心となり、琉球の中継貿易は衰退した。ただし、明が[[朱印船]]を受け入れなかったため、琉球の対明中継貿易の地位は残り、命脈を保った。
 
しかし[[16世紀]]に入り、[[1567年]]([[隆慶 (明)|隆慶]]元年・[[永禄]]10年)、明が倭寇対策として海禁の緩和(中国人とアジア諸国との直接交易を認める。
 
ただし日本のみ除外。)を行ったことで大打撃を受ける。
 
しかし[[16世紀]]に入り、[[1567年]]([[隆慶 (明)|隆慶]]元年・[[永禄]]10年)、明が倭寇対策として海禁の緩和(中国人とアジア諸国との直接交易を認める。ただし日本のみ除外。)を行ったことで大打撃を受ける。[[大航海時代]]を迎えた[[ヨーロッパ]]諸国が東南アジアに貿易拠点を築き[[東シナ海]]にも進出すると、[[ポルトガル]]が[[マラッカ]]を抑えることで東南アジアの市場を失い、日本との中継貿易も[[マカオ]]のポルトガル人が手がけるようになるなど、ヨーロッパ人が[[東アジア]]諸国と直接貿易をするようになった。更に[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に戦費調達のため[[鉱山]]開発が進んだ日本が、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初頭にかけて、豊富な[[銀]]を持って東南アジア領域に進出し、多数の[[日本人町]]を形成するほど貿易の中心となり、琉球の中継貿易は衰退した。ただし、明が[[朱印船]]を受け入れなかったため、琉球の対明中継貿易の地位は残り、命脈を保った。
 
ただし、明が[[朱印船]]を受け入れなかったため、琉球の対明中継貿易の地位は残り、命脈を保った。
 
その後、東アジア諸国の[[鎖国]]政策によって国際貿易は縮小するが、薩摩藩の[[付庸国]]となることで日本との冊封貿易によって中国との貿易ルートを得た琉球が安定した中継貿易の地位を確立した。
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==軍事==
『[[おもろさうし]]』に謡われる「しおりおやいくさ」には「'''首里親軍'''」の字が当てられ、首里・那覇の防衛および対外地域への征服活動を行っていたと考えられている<ref>上里(2002)</ref>。

研究者によっては「琉球王国軍」「琉球軍」と表現されることもあるが、当時そのような名称を冠していた訳ではない。兵力は数千人規模と想定されており、[[1500年]]([[弘治 (明)|弘治]]13年・[[明応]]9年)には八重山征服戦争を、[[1522年]]([[嘉靖]]元年・[[大永]]2年)には与那国島征服戦争を、[[1571年]]([[隆慶 (明)|隆慶]]5年・[[元亀]]2年)には奄美群島全域征服を行い、[[1609年]]([[万暦]]37年・[[慶長]]14年)の薩摩島津軍の[[琉球侵攻]]では琉球王国の[[国防|国土防衛]]を担った。

なお、首里親軍の名称は古琉球の歌謡集『おもろさうし』(上述)に登場する。
 
== 言語 ==
{{main|琉球語}}
 
[[話言葉]]は、琉球方言(日本語、候文の口語体に近い[[琉球語]]とも言う)が用いられた。[[文字]]は、[[15世紀]]以前の[[古文書]]や石碑の[[金石文|碑文]]では、漢字ひらがな交じりの和文が用いられている。

[[17世紀]]以降になると、首里王府内の[[公文書]](評定所文書)や薩摩など日本との外交文書では[[和文]]([[候文]])が、家譜や明・清との外交文書では[[漢文]]が主に用いられた。[[琉歌]]や[[組踊]]などの文学作品では和文と琉球方言(琉球語)が主に使用された。
 
== 宗教 ==
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=== 琉球神道 ===
{{See also|琉球神道}}
古来より琉球には[[アニミズム]]、[[祖霊信仰|祖霊崇拝]]、[[おなり神]]信仰を基礎とする固有の宗教があり、[[首里]]には[[聞得大君]]御殿(きこえおおきみうどぅん)、首里殿内(しゅりどぅんち)、真壁殿内(まかべどぅんち)、儀保殿内(ぎぼどぅんち)の一本社三末社があった。聞得大君御殿は首里汀志良次町にあり、琉球各地にある祝女殿内(ぬんどぅんち)と呼ばれる末社を支配した。
 
聞得大君御殿は首里汀志良次町にあり、琉球各地にある祝女殿内(ぬんどぅんち)と呼ばれる末社を支配した。

'''聞得大君'''(キコエオオキミ)は琉球王国の高級神女三十三君の頂点に君臨する最高[[女神|神女]]で、その地位は国王の次に位置し、前・元王妃など王族女性から選ばれて任に就いた。

聞得大君は御殿の神体である「御スジノ御前」、「御火鉢ノ御前」、「金之美御スジノ御前」に仕え、国家安泰、海路安全、五穀豊穣などを祈願した。
 
=== 神道 ===
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=== 仏教 ===
[[13世紀]]、[[英祖 (琉球国王)|英祖]]の治世に琉球那覇に[[臨済宗]]の僧侶・禅鑑が漂着、王が極楽寺<ref>『浦添市史』〈浦添市教育委員会、1983年3月〉231頁</ref>を建立させたのが琉球での仏教の始まりと言われる。その後、[[察度]]の代に和僧[[頼重法印]]が勅願寺(現在の[[護国寺 (那覇市)|護国寺]])<ref name=":1">[http://w1.nirai.ne.jp/njm/sub2.html 略縁起|護国寺]</ref>、[[尚真王]]の代に和僧[[芥隠承琥]]が[[円覚寺 (那覇市)|円覚寺]]を創建した。

近世までに円覚寺、天王寺<ref>{{Cite web|title=天王寺跡(テンノウジアト) : 那覇市歴史博物館|url=http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/site/%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E8%B7%A1|website=www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp|accessdate=2019-04-03}}</ref>、天界寺<ref>{{Cite web|title=天界寺跡(テンカイジアト) : 那覇市歴史博物館|url=http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/site/%E5%A4%A9%E7%95%8C%E5%AF%BA%E8%B7%A1|website=www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp|accessdate=2019-04-03}}</ref>を合わせて那覇三大寺としたが、沖縄戦で多くが焼失した。
 
[[首里城]]の[[万国津梁の鐘]]は仏教の興隆を謳う[[梵鐘]]である。
 
[[首里城]]の[[万国津梁の鐘]]は仏教の興隆を謳う[[梵鐘]]である。ほか、[[崇元寺]]がある。17世紀初頭には和僧[[袋中]]が[[浄土宗]]を伝える。[[エイサー]]はこの袋中が伝えた[[念仏踊り]]<ref>[http://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_pre86.html 琉球と袋中上人展 - エイサーの起源をたどる -]</ref>が元。また、帰国後「[[琉球神道記]]」も著した。薩摩藩は藩内で[[浄土真宗]]を禁圧していた。[[19世紀]]以降、一向宗の摘発が行われた<ref>[http://shinran-oki.org/history.html 東本願寺沖縄別院]</ref>。
 
=== 道教 ===
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=== キリスト教 ===
[[1622年]]([[天啓 (明)|天啓]]2年)、八重山に南蛮船が渡来し布教をしたのが琉球における[[キリスト教]]のはじまりと言われている。既に日本本土ではキリスト教が禁教となり、琉球王国も薩摩藩支配下となっていたため、公には禁止されていた。しかし琉球には南蛮船がたびたび寄港したため布教活動がたびたびあった。

[[キリシタン]]は摘発されると罰せられた。
 
琉球における最も大きなキリシタン禁圧は[[1624年]]([[天啓 (明)|天啓]]4年)の[[八重山キリシタン事件]]である。神父と石垣島の地頭が薩摩藩の要求により処刑されている。[[1636年]]([[崇禎]]9年)、薩摩藩は琉球に[[宗門改]]の実施を求めた<ref>新城俊昭「琉球・沖縄史」東洋企画</ref>。
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琉球王国の身分制度は、'''[[御主加那志前]]'''(ウシュガナシメー)と呼ばれた国王を頂点に'''[[御殿 (沖縄)|御殿]]'''(ウドゥン)と呼ばれた王子、按司などの王族、'''[[殿内]]'''(トゥンチ)と呼ばれた親方、親雲上(ペークミー)などの上級士族、'''[[親雲上]]'''(ペーチン)と呼ばれた一般士族、'''百姓'''(ヒャクショウ)と呼ばれた平民からなる。
 
王子、按司は一[[間切]]を采地(領地)として与えられ、一括して[[按司地頭]]と呼ばれた。親方は一間切を領する[[総地頭]]、間切内の一村を領する[[脇地頭]]に分かれる。

親雲上(ペークミー)とは、一村を領する脇地頭職にある親雲上(ペーチン)のことであり、発音で両者は区別された。

親雲上(ペーチン)は一般士族である。
 
王子から親雲上までは広義における貴族階級であり、それぞれの家は系図(家譜)を持つことを義務づけられたことから、'''系持ち'''と呼ばれた。これに対して、平民は系図を持たないことから'''無系'''と呼ばれた。
 
王子から親雲上までは広義における貴族階級であり、それぞれの家は系図(家譜)を持つことを義務づけられたことから、'''系持ち'''と呼ばれた。これに対して、平民は系図を持たないことから'''無系'''と呼ばれた。琉球王国末期、系持ちは総人口の25%超を占めたが、このうち実際に王府に勤めていたのはごく一部である。大部分は王府勤めを待ち望む無禄士族であった。
 
== 脚注 ==